年間第4主日 B年(2018.1.28)

第一朗読『申命記』

申命記 18:15-20

イスラエルの人々は、シナイ山(ホレブ)で、火の中から語りかけられる生ける神の御声を聞きます。しかし、大きな火によって焼き尽くされる死の危険から、神の告げられる言葉を預かって人々に語る「預言者」を立てることを求めました(申命記5:23-33)。

「わたし(モーセ)のような預言者」とは、律法を重んじる者ということではありません。預言は、律法と対立するものではなく補完しあうもので、律法を時代の要請に合わせて生かすべく注がれる新たな光が預言です。イエスと対立したファリサイ派の人々は、律法に解釈を加えて細則を設け、かえって束縛の道具(重荷)としてしまいました。

わたしたちキリスト者は、人間によって教えられるのではなく、神によって教えていただく恵みの中に生きています。誰が、自分の言葉ではなく、主の言葉を語る預言者なのかを識別する方法は、言葉の成就しか語られていません(申命記18:22)。迫害者とならないためには、神の言葉を求め続ける真摯さが不可欠です。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 7:32-35

パウロは、わたしたちキリスト者一人ひとりが、「思い煩わないで」主を喜ばせるようにと願います。それは、「体も霊も聖なる者」になることで、全身全霊において神のものとなることを意味しますから、心が二つに分かれるなら、主に喜ばれません。「ひたすら」と訳された語も「心を乱さずに」という意味です。

結婚することは罪ではありませんし、結婚しても「主に仕える」ための道があることは、結婚していた聖人たちが証明しています。パウロは、独身主義を掟として強制しているのではなく、より良いこととして提示しているだけです。

このことが修道者の貞潔(生涯独身)の源ですけれど、修道者になっても、妻以外の何かによって、心が二つに分かれることはありえるのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 1:21-28

イエスの教えは、律法学者が掟を説くように単に言葉や教説に終わるのではなく、行動に具体化された教えであり、イエスのうちに実現している神の国の福音を伝えるもので、イエスという存在がすでに「教え」なのです。

霊能者による悪霊追放は、古代世界に広く見られる現象で、それを伝える物語もヘレニズム世界に広く見られ、パターンも決まっています。マルコ福音書1章23-27節でも、そのパターンは踏襲されており、その伝承だけで読むなら、イエスは古代世界に存在した神的霊能者のひとりにすぎません。しかし、「権威ある新しい教え」の記述によってはさみ込まれた奇跡物語は、神の国の到来をあらわしています。

イエスは、魔術的な手段によらず、「叱る」だけで、男を悪霊から解放しました。汚れた霊に「出て行け」と命じると、その言葉の通り、汚れた霊は「出て行った」のです。イエスの言葉が目の前で出来事として実現するのを見た人々は、「権威ある新しい教えだ」と言って驚嘆しました。人々は、言葉を出来事にできる神の力をイエスに見い出したのです。

シナイ山の律法授与
The giving of laws on Sinai
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。