年間第3主日 B年

第一朗読『ヨナの預言』

ヨナ 3:1-5、10

アッシリア帝国の首都ニネベの人々は、まことの神を知らずに生きてきましたが、預言者ヨナの呼びかけを聞いて神を信じ、悪の道を離れたため、神はニネベの滅びを思い直されました。ヨナにとって異教で異邦人である人々でさえ、神には大切なのです。

ヨナは、神の指示を素直に聞いてニネベに向かったのではなく、理解せずに拒絶して、さんざんな目にあってから行きました。しかも、ニネベの人々が悔い改めたことを不満に思って「怒りのあまり死にたいくらいです」と神に訴えています。神に選ばれた者であっても、神に従順であり続けるのは難しいことです。

生き方が変わるのは、何の疑いもなく信じ込んでいる価値観(自分の常識)から抜け出すときですから、自分の意志からではなく、神が何らかの仕方で介入されることによって、生き方は転換するのです。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 7:29-31

キリスト者は、キリストに結ばれて神との新たな関わりに生き始めた人々ですから、日常のさまざまな場面でも変化が起こります。コリントの教会では、異邦人の間にも見られないほどみだらな行いをする者がいる一方で、結婚を否定して禁欲生活を理想とする人々がいました。

新しい世では、一人ひとりが神の御前で不足のない命を生きることができるため、「めとることも嫁ぐこともなく」(マルコ12:25)、結婚は不要になります。妻を持つことが否定されてはいませんが、新しい世の到来を心にとめれば、妻の「ある人」は「ない人」のように生きることは可能だとパウロは教えています。
悲しみ喜びなどすべて、この世のありさまは過ぎ去るのだから、執着しないようにとの忠告です。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 1:14-20

二組の兄弟を弟子へと招く場面で、召命の描写は、5つの要素から成り立っています。マルコ福音書では、レビの召命(マルコ2:14)でも同じパターンですから、召命という出来事は、どこで起こっても本質的に同じということをあらわしていると考えられます。

まず、イエスの動作で、①場所の移動 ②イエスが見る ③イエスの招き です。次に、声をかけられた側の反応で、④受け入れる表現 ⑤従ったこと です。もし、生き方を変える主要な力が人間の決断にあるとするなら、④と⑤が重要な要素になります。しかし、第一朗読のように、生き方の転換には神の介入が必要とするならば、②と③が召命の本質的な要素になります。

そうであるならば、網や家族を捨てることが最重要なのではなく、何を捨てるかは二の次で、何かを捨てたくなるほどに「見られてしまい」「呼ばれた」ということが肝要になるのです。この「見られてしまい」「呼ばれた」ということが弱まると、捨てたものが惜しくなってしまいます。ですから、召命とは、ひと時の出来事ではなく、生涯にわたって暖め続けるべき出来事なのです。

また、家族を捨てるという形での召命もあれば、逆に独身を捨てるという形での召命もありますが、どちらもイエスに従う召命という生き方であって、優劣はではないのです。

ヤコブとヨハネを呼ぶイエス
Christ Calling the Apostles James and John
Edward Armitage (1869)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。