年間第2主日 B年(2018.1.14)

第一朗読『サムエル記』

サムエル上 3:3b-10、19

シロの神殿に仕える祭司エリの息子である祭司たちは、神を軽んじて傍若無人に振る舞ったため、「主の言葉が臨むことは少なく」なっていました。そこで、「まだ主を知らなかった」少年サムエルに、主は語りかけ、その後も「引き続き...主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示され」たのです(1サムエル3:1-21)。

神は、祭司に失望され、預言者という新しい道を通して民に語りかけられました。サムエルは、最後の士師であり、最初の預言者とも言われます。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 6:13c-15a、17-20

直訳では、あなたがたの「体」も「神殿」も単数形で書かれています。なぜなら、教会が「キリストの体」であり、それぞれ勝手に自分が考える正義や願望を実現しようと働いているのではなく、キリストを頭として、多様な役割を持ちながらキリストにおいて一致する、ひとつの「キリストの体」だからです。

教会をひとつにする力は、神からいただく「聖霊」であり、神から来る力だけが人をひとつの体に造り上げるのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 1:35-42

洗礼者ヨハネの二人の弟子がイエスの後を追ったのは、イエスを見たからではなく、洗礼者ヨハネの「見よ、神の小羊だ」という証しを「聞いた」からです。つまり、イエスとの出会いの始まりは、証しを聞くことだったのです。

イエスこそ、失われたものを探して救うために来た方であり、「何を求めているのか」は救いへの招きです。二人の弟子は、「どこに泊まっておられるのですか」と問い返しますが、「泊まる」と訳された語「メノー」は、イエスが「わたしはぶどうの木、...わたしに...つながっていれば...豊かに実を結ぶ。わたしを離れては...何もできない」(ヨハネ15:5)で「つながる」と訳された言葉です。ヨハネ福音書では40回ほど使われており、「家や船など、具体的な場所にとどまる」場合にも使われますが、「教えや信仰など、ある状態にとどまる」ことにも使われ、その場合、「人が自分本来のあり方を見い出したところから離れず、そのままとどまる」という意味になります。

イエスの言葉「来なさい。そうすれば分かる」の「分かる」は、直訳で「見る」です。従った二人が見たものは、単なる宿泊場所ではなく、イエスがつながりとどまっているところ、父である神との交わりそのものでした。イエスと一緒にそこに泊まる(とどまる)ことにより、洗礼者ヨハネが「神の小羊だ」と証ししたイエスがどのような方であるか身をもって体験し、そのキリストとの出会いによって新しい歩みが始まったのです。

イエスとの出会いの体験は、それだけで終わりません。アンデレがペトロに伝えたように、イエスに出会った人は、その喜びを分かち合うために外に出かけて行き、その証しを聞いて、イエスに「泊まる(とどまる)」者が次々にあらわれることになるのです。

ヨルダン川のほとりに泊まるイエス
Jesuss lodging on the banks of the Jordan
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。