主の公現

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 60:1-6

「あなた」と呼びかけている相手はエルサレムで、エルサレムを満たす「主の栄光」が歌われています。当時のエルサレムは惨めな状態にあり、約束されていた栄光はあらわれそうもないため、自分を中心にした生き方を始めた人々に、「主の栄光」がエルサレムを満たす時が到来すると説き、神に目を向けさせようとしています。

神からの栄光によって、エルサレムは輝きます。しかし、夜の闇に覆われた街が太陽の光を受けて輝き出るように、自分で発する光ではなく、神から受けた光を反射させたにすぎません。神による新しい創造です。この輝きを目にした諸国の民や王たちは、エルサレムへ引き寄せられ、「黄金や乳香」を携えて押し寄せてきます。

新しいエルサレム、つまり教会にいるわたしたちも同じように、世の闇(戦争・犯罪・憎しみ・エゴイズムなど)の中で、神の光を受けて輝くのです。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 3:2、3b、5-6

キリスト以前の時代には知らされていなかった「この計画(=救いの計画)」は、啓示されました。神の栄光は、秘められた計画として隠されていましたが、今やキリスト・イエスにおいて明らかにされ、異邦人をも招いています。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 2:1-12

第一朗読で、イザヤの語った「主の栄光」は、星による導きとなりました。暗い夜空に輝く星は、幼子がどのような存在であるかを象徴的にあらわしています。

罪から人を救う幼子の誕生は、すべての人に及ぶものですから、星によって異邦人にも告げられ、東の国に住む占星術の学者たちは「黄金、乳香、没薬」を携えて幼子のもとに来てひざまずきました。

しかし、ヘロデは、自分の栄光と権力の座に固執するあまり不安を抱き、栄光の源を拒絶します。「わたしも行って拝もう」の真意は、幼子を抹殺することにありました。聖書に通じている宗教指導者や律法学者も、知識としては知っていながら、足を運ぶことをしません。せっかく啓示された「主の栄光」ですが、それを認めず、闇にとどまったのです。そこに、人の罪があらわれています。

真に「礼拝する」ことのできる、人を生かす王に出会った博士たちは、もはや人を殺す王のもとには戻らず、「別の道を通って」帰ります。幼子を礼拝することにより、幼子が示す新しい道に向かって歩み始めたのです。博士たちは、キリストと出会いたいと願うすべての人たちの代表です。幼子に示された「主の栄光」は、拒絶した人たちの上にも、まだ輝きに気付いていない人たちの上にも、確かに輝いているのです。

人は、自分の栄光を求めて、「富や財産」とか「名誉や栄誉」を得ようとあくせくしますが、だいたいは失敗に終わるものであり、結局どこまで行ってもすぐに消え去る虚しい地上のものです。「栄光」は、獲得するものではなく、神から与えられるものだからです。わたしたちが求めるべき「栄光」は、いつまでも失われることのない「神の栄光」なのです。

三王礼拝
Three kings worshipping Christ
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。