聖家族 B年

第一朗読『創世記』

創世記 15:1-6、21:1-3

アブラム(のちのアブラハム)は、神の言葉に従い、七十五歳で故郷メソポタミア北西部のハランを離れ、神の示す約束の地に出発した信仰の人です。

しかし、いつまで経っても跡継ぎは生まれず、アブラムは不安を訴えますが、神は、あなたから生まれる者が跡を継ぎ、あなたの子孫は数え切れない星のように多くなると約束され、アブラムは今度も神の言葉に信頼し、主を信じます。神は、この信仰にこたえて、人間の常識的にはまったく可能性がないのに、アブラムに跡継ぎを与えました。

イエスの復活を知らず、イエスの教えを考えに入れない旧約時代の人々にとって、子孫とは、自分がその中に生き続けるための場であり、一族への祝福を保証するしるしと受け取られていたのです。

「信じる」と訳されている言葉「アーマン」は、もともと「堅固さ・確かさ」をあらわします。ですから、信仰とは、神の言葉に基づく堅固さ、つまり神の言葉にしっかりと立つことです。「アーメン」は、この語から派生した言葉で、わたしたちが「アーメン」と口にするとき、「神の言葉に立って自分を堅固にします」と神に告白しているのです。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 11:8、11-12、17-19

わたしたちは、血筋ではなく信仰によって、皆アブラハムの子孫です。(ローマ4:16)

ヘブライ人への手紙の著者は、イエスの復活について知っていますから、アブラハムの信仰をたたえるときにも、創世記の書き方とは違ってきます。その違いは、イサクのことを「独り子」と表現してイエスとの関連性に着目させるところに見られますが、アブラハムの跡継ぎを幼子イエスと結び付けることによって、その意義が深められているのです。

「返してもらったも同然です」は、直訳で「前ぶれの中で得た」です。つまり、イサクの出来事は、イエスの復活をあらわす「前ぶれ」なのです。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 2:22-40、 または 2:22、39-40

マリアがイエスを出産してから40日目の出来事で、この清めの式には、神に仕えるべき初子を戻してもらうという意味がありました。献げた「いけにえ」から、イエスの家庭が貧しかったこともわかります。わたしたちが持っているどんな大切なものも、本来は神のものであり、わたしたちは貸していただいているにすぎないのです。

シメオンが、初めて会った幼子について知り抜いていたのは、神の言葉に立つ信仰の中で、霊の導きがあったからです。霊の働きがないかぎり、待ち望むことも幼子の正体を見抜くこともできません。そして、シメオンが、両親よりも幼子が誰であるかを知っていたように、空間的な近さは、真理を知るために不可欠な要素ではありません。起こった出来事を実際に目にすれば経緯はわかりますが、その出来事に秘められた真理を知るために経緯は必ずしも必要ではないのです。

「多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」とあるように、幼子に対して、どのような態度を取るかにより、人の定めは決定されるのです。

主の奉献
The child Jesus brought to the temple and recognised by Simeon as the saviour - William Brassey Hole
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。