年間第30主日 A年

第一朗読『出エジプト記』

出エジプト 22:20-26

ここで使われている「憐れみ深い」と訳された形容詞(ハッヌーン)は、旧約聖書で13回使われていますが、人間に使われる例はなく、もっぱら神に使われています。神に特有の「憐れみ」を指すからであり、人間には欠けている「憐れみ」をあらわす言葉とも言えます。

人間にも、哀れみの心は備わっていますが、自分の利益を犠牲にするほどには強くないのが普通です。けれども、自己を優先させることがないほどに強い神の「憐れみ深さ」に心を留めるなら、弱者を後回しにしたり、圧迫することがないはずだと説いています。

弱い立場に追いやられている者のために配慮する神の憐れみが、わたしたちを行動へと向かわせるのです。

第二朗読『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』

一テサロニケ 1:5c-10

テサロニケの人々は、「主の言葉」を受け入れたときに、それを自分たちの間に封じ込めておこうとはしませんでしたから、開かれた教会となりました。

「聖霊による喜びをもって」御言葉を受け入れ、聖霊が信仰者のうちに働くならば、御言葉はすべての人に向かって出ていき、聖霊が手渡されていくのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 22:34-40

ファリサイ派は、書かれた律法の他に、口で伝えられた律法も尊重して、それらすべてを文字どおりに守ることに精進し、そうしていることを誇りとしていました。

「律法全体と預言者」とは、旧約聖書全体をあらわす表現です。そして、歴史を作り上げるのは、神と人間です。イエスが、問にはない「預言者」を付け加えて答えられたのは、ファリサイ派が、律法を歴史の具体的な状況から切り離して、抽象(全部にいつも共通なものとする考え、マニュアル思考)に陥っていることを批判するためです。

もし神の言葉が歴史から切り離されてしまったら、人を生かす具体的な力にはなりえません。神が歴史の中で行われた救いの業を通して神の愛を思うとき、律法は単なる束縛ではなく、救いの喜びの表現となるのです。ファリサイ派の教えが、人々にとって負いきれない重荷となったのは、歴史に現実となった神の業から目を離して、文字としての律法にこだわったからなのです。

イエスは、神への愛と隣人への愛はひとつのものであって、旧約聖書全体がここに「基いている」ことを明らかにされました。「基づいている」という言葉は、ぶらさがっている状態をあらわしていますが、神への愛と隣人への愛をはずすと、すべての律法は成立しなくなってしまいます。神の愛への感謝とそれに応えたい思いによって、隣人愛が湧き出るのです。ですから、第一に神への愛、その次に隣人への愛が行われるです。

すべての掟は、神への愛と隣人への愛に依存しているのであり、両者は別のものではなく、相互に深く関わっているのです。

聖書の編纂
Compiling and editing the canon of Scripture from ancient documents and records
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。