年間第23主日 A年(2017.9.10)

第一朗読『エゼキエルの預言』

エゼキエル 33:7-9

預言者エゼキエルは「見張り」とされましたが、一心に注意を向けるのは、神の「言葉」を聞くことです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない」(エゼキエル33:11)と言われる神に聞き従うかどうかの決断によって、わたしたち一人ひとりの命は決まります。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 13:8-10

聖書の述べる「愛」とは「神の愛」であり、隣人愛も決して無関係ではありません。

律法は、多くのことを求めているように見えますが、実は、ただひとつのこと、神の愛に正しく応えるわたしたちの愛を求めているのです。それが、隣人愛という形でもあらわれ、そのように他者を愛すなら、律法を満たした(ふさわしく行った)者となるのです。

社会人として果たすべき義務に関しては「借り」があってはなりませんが、「互いに愛し合う」ことは例外で「借り」が残るとされています。なぜなら、隣人愛(人間の間の相互愛)とは、わたしたち自身が作り出す愛ではなく、神から与えられた愛を隣人へと反射させたものにすぎないからです。

「神の愛」に報いる道は、「互いに愛し合う」ことです。けれども、神からの愛は、比較にならないほど大きいので、どんなに隣人愛に励んで努力しても、恵みとして無償で与えられた「神の愛」には遠く及ばず、不均衡なまでに借りが残ってしまうのです。

この愛に目を向けることがなければ、所有欲が隣人愛を窒息させてしまいます。所有欲を克服して与える心になるためには、受けた恵みへの感謝が不可欠なのです。

何の代償も求めず、ひたすら人に命を与えるために十字架へとのぼったイエスの姿に「神の愛」を見るなら、隣人と共に生きる者となるはずです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 18:15-20

この朗読箇所の直前に「迷い出た羊」のたとえが語られ、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ18:14)とあります。罪を犯した兄弟は、「迷い出た羊」であり、わたしたちは、そのような「小さな者」を心にかける神の思いを知らせなければなりません。

ですから、忠告するのは、誹謗中傷で滅ぼすためではなく、「兄弟を得る」ためなのです。また、「忠告する」と訳された動詞は、「光にさらす」という意味を持ちますから、過ちを認めるようにと、(滅びを望まない)神の光で照らすことが目的であって、自分の考えに従わせることが目的であってはなりません。わたしたちは、相手の心を神の思いへと向けさせ、聞き入れない者にも辛抱強く最後まで寄り添うように命じられているのです。

教会の判断は、天の父の判断とされます。しかし、教会の権威は、人間の力によるものではなく、教会の頭であるイエスに由来するのです。それは、イエスの名によって集められた、(自分を中心に置かない人たちによる)イエスが中心にいる集いです。

わたしたちがどこにいても、主はいつも共にいます。この呼びかけが聞き取れるなら、母親の姿を見失った子どものように不安になって落ち着きを無くすことはないでしょう。

エマオの晩餐
The Supper at Emmaus.
Rembrandt (1648)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。