主の変容 A年(2017.8.6)

第一朗読『ダニエルの預言』

ダニエル 7:9-10、13-14

激しい宗教的迫害に苦しむ人々に勝利を確信させ、信仰に踏みとどまるようにと語られた言葉で、さまざまな象徴が使われています。「人の子」とは、一般に人間(神とは違う存在)のことですが、ここでは「人の子のような」姿をとった天からの存在、神の支配を地上にもたらす特別な方(審判者・王・救い主)を指しています。

福音書でイエスが、「わたし」ではなく「人の子」と言うとき、自分がこのダニエル書に示された「人の子」、すなわちメシヤであることを暗示されているのです。

第二朗読『使徒ペトロの手紙』

ニペトロ 1:16-19

「わたしたち」とあるように、目撃した使徒たちの一致した証言として語られています。「知らせた」と訳されるギリシア語は、神が力を知らせる(ローマ9:22)とき、啓示されたことを知らせる(1コリント15:1)ときに用いられる言葉です。

「預言の言葉(=旧約聖書)」も、キリストの再臨を証ししていいますが(1ペトロ1:10-12)、今回の福音朗読の出来事(変容)によって、いっそう確実なものとなりました。まだ、わたしたちキリスト者は、「暗い所(この世)」を歩み続けていますが、この世にあっても、預言の言葉という「輝くともし火」を携えて生きることができるのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 17:1-9

今回の朗読箇所の直前に、イエスは初めて弟子たちに受難と復活を予告されており、朗読箇所の後にも、二度目の受難と復活の予告が語られます。イエスが弟子の前で、ご自分が誰であるか、その本性を栄光に満ちたものとして輝いたのは、復活を先取りして受難予告に落胆する弟子たちを励ますためであり、イエスの十字架が神の意志であることを弟子たちに示すためなのです。

イエスの姿が変わることについて、最初に書かれたマルコ福音書はギリシア神話で神々が変身するときのギリシア語を使っていますが、ルカ福音書では別の言葉を用いています。イエスの輝きは外面的な変身ではなく、神の子としての内面の輝きがあらわれた結果だからです。

ペトロは、栄光を地上に留め置きたくて、「仮小屋を三つ建てましょう」と口走りますが、話し合われているのは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9:31)であり、「最期」と訳されているエクソドスは、出発や旅立ちを意味しています。つまり、惨めな死で終わる「最期」ではなく、父のもとに帰る「出発」なのです。イエスは「子」であり、地上の(この世的な)栄光を獲得するためではなく、一見すれば敗北と見える十字架の栄光を担うために選ばれました。ですから、神の「これに聞け」という指示は、仮小屋を建てて立ち止まらずに、エルサレムに向かうイエスに聞き従い、後について行きなさいという招きなのです。

イエスが死んで復活したのは、イエスを信じる者たちに、豊かないのちをもたらすためです。イエスの出発は、わたしたちの出発へとつながっているのです。

変容
Transfiguration
Raphael (1518-1520)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。