年間第14主日 A年

第一朗読『ゼカリヤの預言』

ゼカリヤ 9:9-10

この箇所は、イエスのエルサレム入城の預言として、新約聖書に引用されています。貧しい(高ぶらない)王(メシア)は、それまでのメシア預言には見られない要素です。

シオンに来る王は、「神に従い、勝利を与えられた者」。すなわち、神に救われた者で、謙遜にへりくだり、高ぶることがありませんから、馬ではなく「ろばに乗って」来ます。「雌ろばの子」は、王がもたらす恵みの豊かさをあらわしています。(創世記49:11)

平和は王の到来から始まりますが、平和を築きあげる力は神にあるのです。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 8:9、11-13

聖書で「霊」と対比して「肉」という語が使われる場合、「肉」は「人間的なもの」といった意味になります。「肉」とは、神に心を向けずに、自分自身の人間的な力や可能性に頼ろうとする生き方で、人が自然に選ぶ生き方です。対して「霊によって」とは、神からの力に頼る生き方のことです。

わたしたちが、「霊によって」生きることができるのは、「肉」による生き方の空しさを示し、神からの力によって生きる姿を、身をもって示された、復活のキリストのおかげなのです。

人間は、「霊」を自由に操ることはできません。「霊」が、わたしたちのために「体の仕業を絶つ」のです。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8:14)とあるように、わたしたちがすべきことは、神の霊の働きを妨害しないことです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 11:25-30

今回の朗読箇所の前後には、イエスがユダヤ人から拒絶される状況が描かれています。人々の無理解の中でも、イエスが神に賛美をささげることができるのは、神をあらわす者としての自身の行いが、「御心に適うこと」だと知っているからです。

「知恵ある者や賢い者」とは、イエスを認めようとしないユダヤ人、特にファリサイ派の人々のことですが、自分の力で救いに達しようとするあまり、イエスが示す神の国の福音を受け入れることができませんでした。わたしたちも、人間としての知恵や賢さを捨てて「幼子のような者」になり、神に聞かねばなりません。

当時のユダヤ教指導者は、神から人間に与えられた「軛(くびき)」として律法遵守を求め、自分たちが律法を実行していることを誇り、律法を果たせない弱い者は神の救いから除外されるべきだと考えていました。神の「御心に適うこと(神の計画のうちにある出来事)」を知るイエスは、このような「重荷」を負わされ疲れ果てた人々に、確信を持って「休ませてあげよう」と語り招かれたのです。

イエスが身をもって示された「柔和で謙遜な者」とは、神のあわれみに信頼して、自分の強さを誇らない人のことです。そして、イエスの「軛」が負いやすく軽いのは、神の思いを知るイエスが、横で一緒に背負ってくれるからです。イエスに学び、イエスに足並みを揃える生き方の中に、安らぎがあるのです。

エルサレム入城
Jesus entering Jesusalem
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。