年間第13主日 A年(2017.7.2)

第一朗読『列王記』

列王記下 4:8-11、14-16a

他人を手厚くもてなすことは、人道主義的に古代社会でも行われていたことで、重要な意味も持っていました。しかし、神に遣わされた人を受け入れることは、それ以上の意味を持ち、宣教者のことばを受け入れて、信じることに他なりません。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 6:3-4、8-11

キリストの「死にあずかる」ということが強調されるのは、それが罪の奴隷である状態に終止符を打つことになるからです。キリストと共にあるのは、キリストと共に罪に対して死ぬためであり、またキリストと共に復活して「新しい命に生きる(神に対して生きる)」ためです。イエスは、十字架を通して命をもたらす方なのです。

わたしたちは、洗礼によって「古い自分」(ローマ6:6)を捨て去り、新しい命に生き始めました。まだ途上ではありますが、「キリストと共に生きる」ことを始めたのです。

すなわち、わたしたちは、キリスト・イエスの中へと、その死の中へと洗礼を受け、キリスト・イエスの中で生きるようにされています。わたしたちは、自分の力で生きるのではなく、キリストの中で、神によって生きているのです。

「キリストと共に」、「キリスト・イエスに結ばれて」新しい命を生きる、これ以上の恵みはありません。ですから、罪の中に留まる必要はないのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 10:37-42

わたしたちの生活は、家族や身近な人々によって支えられています。ですから、そのような人々を大切にすることは当然のことで、血縁に愛着を持つのは自然なことです。しかし、家族を大切にし、血縁に愛着を持つがゆえに執着して、罪を犯すことも少なくありません。家族のためだとしながら、結局は自分のためという場合もあるでしょう。

イエスは、家族を最優先にして「わたし(イエス)よりも」愛する人は、「わたしにふさわしくない」と言明し、それは「わたしに従わない」ことであり、命への道ではないと教えます。なぜなら、そこには命への道であるイエスとの関わりが欠けているからです。つまり、「自分の命を得ようとする者」とは、イエスとの交わりを持たずに生きようとする人のことなのです。

人が探し求めて見いだすものは、本来、恵みとして与えられたものです。ですから逆に、イエスのために自分の命を失う者は、生きるべき命、すなわち自分自身と自分が愛する者たちを見いだすことができます。血縁の関わりを凌駕する新たな関わりによって、むしろ血縁の持つ真の輝きが発揮されることになるのです。(マルコ10:28-29、マタイ12:50、マタイ6:33)

イエスに派遣された者は、イエスの人格を帯び、そのことばを携える者です。イエスのために命を「失う」ことによって、神からの命を受け継いだ者であり、受けた命をすべての人にもたらすことが使命なのです。だから、イエスに派遣された者を受け入れる者は、神からの命を「失わない」のです。

十字架を背負うキリスト
Jesus sinking under the weight of his cross
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。