三位一体の主日 A年

第一朗読『出エジプト記』

出エジプト 34:4b-6、8-9

神はご自身で、ご自分がどういう方であるかを教えて下さいます。神が「主の御名を宣言された」のは、本質である「名」を明らかにして、わたしたちとの関わりを願い求めておられるからです。

「主」は、「わたしはある(どこでも、誰に対しても、いつも働き、共にいる)」(出エジプト3:14)という方であり、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者」です。「主、主」と繰り返されているところにも、契約を守れない民を見捨てることができない神の愛があらわれています。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

ニコリント 13:11-13

パウロは、三位一体の恵みをいただくようになるために、わたしたちの行いがどうあるべきかを示します。

「完全な者になりなさい。」には、偽使徒による「違った福音」(2コリント11:4)を信じる誤りから立ち直り、「修復されなさい、ふさわしい状態にされなさい」という願いが込められています。

また、「すべての聖なる者」には、地域を超えた「一致」が求められています。誰に付くかの分裂と迷いの中にある教会に必要なのは、"交わりを与えるのは聖霊である"と知ることです。主イエス・キリストが与える恵み、神が与える愛、聖霊が与える交わりを感謝して受けるときに、平和と一致が訪れ、一人も欠けることなく「一同」が「(神と)共にある」恵みに満たされるのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 3:16-18

教会暦の年間の始まりとして、三つの大きな祭日がありますが、それぞれ異なる面からわたしたちの信仰をまとめます。ひとつ目の今回は、「三位一体の主日」として、イエスとニコデモの対話(ヨハネ3:1-21)の一部が読まれ、人間が勝手に想像する神々と真の神がどれほど違うかを教えます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され」ましたが、それは「世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」でした。聖書にある「世」とは、罪にまみれて神から離れ、本来あるべき姿から遠ざかった人間の現実のことです。「滅び」とは、神の慈しみに背を向けること、つまり「独り子」を信じないことであり、それはすでに「裁き」なのです。

神が「世」に「お与えになった」イエスの生涯の歩みには、人を罪から解放して永遠の命を与える「神の愛」が、はっきりと示されています。そのことに気づいたなら、すでに神の命に包まれていて、思いと行いは癒され、神にふさわしく振る舞う者へと変えられていくのです。

神はいつも、救いへの門を開いて待っておられます。「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)イエスを通って永遠の命に至るかどうかは、ひとえに人間の決断にかかっているのです。

イエスとニコデモ
Jesus in conversation with Nicodemus
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。