聖霊降臨の主日 A年

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 2:1-11

イスラエル人にとって、「激しい風が吹いて来るような音」は、わたしたちよりもはっきりしたしるしになります。なぜなら、日本語で「霊」と訳されているギリシャ語の「プネウマ」は、ヘブライ語では「ルーアッハ」で、もともと「風」や「息吹」をあらわす語だからです。また、「舌」「言葉」と訳されている語は、原文では同じで、「炎のような舌」は、言葉によってイエスの福音を伝える熱心な宣教をあらわしています。

「ほかの国々の言葉で」というのは、旧約聖書の「バベルの塔」(創世記11)のときに混乱することになった言葉の再統合をあらわします。聖霊に満たされた弟子たちは、分裂を招いた自己中心的な言葉ではなく、すべての人を結び合わせる「新しい言葉(舌)」(マルコ16:17)で「"霊"が語らせるままに」語り始めます。弟子たちが語るというより、父なる神と復活のイエスと聖霊が語っているのです。(ヨハネ14:26)

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 12:3b-7、12-13

わたしたちが良い業を行うとき、すべては聖霊によって動かされ、聖霊によって強められています。わたしたちの祈りの模範となるミサの中の祈りも、ほとんど聖霊を頼む祈りです。信仰、愛、希望、新しい命、霊的成長など、すべて聖霊の恵みなのです。

キリスト者は、人種や社会的身分が違っていても「一つの霊」によって「皆一つの体」です。その「一つ」は人が作り出すのではなく、神がキリストを通して作り出すのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 20:19-23

最後の晩餐の時には、まだ理解することができないイエスの教えを、使徒たちは聖霊によって理解することになります。恐れて「家の戸に鍵をかけていた」とありますが、「戸」は原文では複数形書かれ、堅く閉ざされています。イエスは、裏切って逃げた弟子たちに「あなたがたに平和があるように(シャローム)」と日常的な挨拶をしますが、弟子たちには単なる挨拶以上の意味を持っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ14:27)と約束されていた「平和」を弟子たちに与えられたのです。「平和」(罪の赦し)は、「恐れ」を「喜び」に変えるのです。

イエスは、息(聖霊)を吹きかけ、弟子たちは復活の命を生きる者、霊に従う生き方へと「新しく創造」(2コリント5:17)されました。「罪の赦し」という使命が、「罪の赦し」を果たす力(聖霊)とともに与えられたのです。イエスとの交わりは、死によって断たれることなく、復活を通してさらに高められました。

自分の力で他人の罪を赦すことは不可能に近いことです。被った被害を我慢することは可能かもしれませんが、我慢には限界があります。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22)も、我慢し続けなさいという意味ではありません。神による愛に心を向けるとき、聖霊が赦す力を与えてくれるのです。すべての人に聖霊が及べば、すべての人の罪を赦すことができます。そして、共に集まり、罪を赦し合う者の真ん中にイエスがおられるのです。

聖霊降臨
Jean II Restout, Pentecost, oil on canvas, 1732
Jean II Restout (1732)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。