主の昇天 A年

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 1:1-11

福音記者ルカは、その続編として書いた使徒言行録によって、より詳しくキリストの昇天の有様をわたしたちに伝えます。

弟子たちの質問からは、「イスラエル」という場所に固執し、「この時」という時間にこだわっていることがわかります。しかし、神の国は、イスラエルという場所(空間)を越えて「地の果てに至るまで」広がりますし、神の国が実現する「時や時期」は、わたしたちが把握できる限界を超えた、神の偉大な計画の中にあるのです。

ですから、わたしたちに求められているのは、すべてを知ろうと詮索することではなく、また、天を見上げて立ち止まることでもなく、イエスを通して神が行われた救いの業を悟り、イエスの教えを行動指針として、イエスに心を合わせて生きることなのです。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 1:17-23

ご昇天の意味は、神がキリストをすべてのものの上に置くとともに、わたしたち教会(すべてのキリスト者からなる普遍的教会)に「頭(かしら)」として与えてくださったということです。教会は、キリストの体ですから、キリストがすべてに広がるための足がかりであり、すでにキリストが満ちておられる場なのです。

イエスが天に昇られたのは、もちろんわたしたちを見捨てるためではなく、すべての権威が与えられた者となり、いつもわたしたちと共にいて、すべての人々を神の民とするためなのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 28:16-20

「疑う」は、もともと「二つに分かれる」を意味しますが、わたしたちも、イエスのもとにいたいと思っていても、湖上でペトロが怖くなって沈みかけたように(マタイ14:31)、現実におびえてしまうことがあります。しかし、イエスは、疑いを乗り越えた者だけではなく、疑うものにも近寄られています。この近寄るイエスのことばが、疑いを乗り越えさせるのです。

弟子たちの生活の場であるガリラヤで受けたイエスの指示は、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」です。それは、「洗礼を授ける」「教える」で具体化されます。
弟子とは、イエスの語りかけに絶えず耳を傾け、イエスに生かされ、自身の生き方を通して周囲の人をイエスに出会わせる人のことです。

そしてこの指示は、「天と地」つまり宇宙全体に及ぶ権力をもち、「いつもあなたがたと共にいる。」というイエスの約束に包まれ裏打ちされた指示です。イエスが復活されたのは、信仰と現実のはざまで揺れ動くわたしたちと、どこまでもともにいるためなのです。

ご昇天は、キリストの勝利だけでなく、わたしたちの勝利をも告げる祝日です。教会の「頭」であるイエスはすでに天におられるので、「体」の部分であるわたしたちも後に続いて天に入るのです。今回のごミサは、わたしたちの心を喜びと希望で満たすはずです。その恵みをいただくために、神に心を開きましょう。

キリストの昇天
Jesus ascending into heaven
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。