受難の主日/枝の主日 A年(2017.4.9)

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 50:4−7

わたしたちが、苦しみを担うことができるのは、神に心を開いて、御心を聞き、弟子として従うときです。そのとき、苦しみを意味あるものとして担う力が与えられます。

救い主は、預言者イザヤを通して、神の計画に聞き従って受難を受ける決心をなさいます。

第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』

フィリピ 2:6−11

神であるキリストは、神としての栄光を捨てて人間となっただけではなく、十字架の死を受けるまでへりくだったと聖パウロは教えます。

神は、「自分を無に(空っぽに)」したキリストに「あらゆる名にまさる名」をお与えになります。また、神は、「十字架の死に至るまで」へりくだった(身を低くした)キリストを「高く上げ」られます。このように、神とキリストは、協力して働かれました。その結果として、すべてのものが、真に礼拝すべきものに出会えたのです。

その驚くべきことを悟るように聞きながら祈りましょう。

受難の朗読『マタイによる主イエス・キリストの受難』

マタイ 27:11−54

イエスは「王」ですが、この世の権力をふるうような「王」ではなく、神の救いを実現させるための「王」です。

ピラトにも、弟子にさえ見放されたイエスがなぜ「王」なのかわかりません。人々は、荒れ野で悪魔がイエスを試みたとき(マタイ4:1-11)のように「神の子なら...十字架から降りて来い」とからかいます。

祭司長たちも、イエスを侮辱して「イスラエルの王」と呼びます。彼らにとって「神の子」とは、十字架から降りて自分を救うことのできる者のことで、十字架こそ、イエスが「神の子」ではない証拠なのです。

イエスをののしる人々とは対象的に、ユダヤ人ではない百人隊長や兵士たちがまず、「本当に、この人は神の子だった。」と、イエスが「神の子」であることを理解しました。

現在、多くの人々が十字架を胸に下げています。さらに多くの人が、十字架上で死んだイエスを「神の子」として信じています。信じるだけでなく、イエスの教えを熱心に実行する者は数え切れません。恥ずべき処刑道具であった十字架は、愛のしるしとなりました。ほとんどの国の勲章は、十字架の形をとっています。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」は、詩編22の最初のことばで、この恐ろしい苦しみの中での祈りは、信頼あふれる祈りに変わり、その結果として平和に満たされることばが続いています。 また、エルサレム入場の後、死が近づいていることを知ったイエスは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)とも言われています。

イエスの死
Jesus raising Lazarus from the dead
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。