四旬節第4主日 A年

第一朗読『サムエル記』

サムエル上 16:1b、6-7、10-13a

長男が尊重される当時の社会にあって、最後の者であるダビデに油は注がれ、神によってイスラエルの王に選ばれます。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」とあるように、神の選びは人間の行う評価とは違います。

わたしたちも洗礼のとき、また堅信を受けたときに油を注がれ、「王の司祭職」をいただいたことを、この朗読を聞きながら思い出しましょう。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 5:8-14

神から離れていることは、暗闇の中を歩いているということです。キリストは、わたしたちが心の暗闇を歩かないように、心に光を与えて下さいます。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 9:1-41 または 9:1、6-9、13-17、34-38

イエスは、生まれつき目が見えないのは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と、それぞれが生まれながらに持つ不完全さは、罪ではないとおっしゃいます。

この奇跡の特徴は、イエスの敵であったファリサイ派の人々が否定しようと思って詳しく調べたことです。まず、実際に生まれつき目が見えなかったかどうかを調べました。本人の主張では満足せず、その人の親にも聞いています。結局、奇跡を否定することができなかったファリサイ派の人々は、彼にうその証言を迫ります。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」という言葉は、「奇跡を行った神に感謝しなさい。罪人であるイエスの奇跡ではないと証言しなさい。」という意味があったようです。

知識や常識にこだわるファリサイ派の人々は、神の業は見ることができず、労働が禁止されている安息日に癒やしを行ったということだけで、イエスを罪人だと断定しました。しかし、見えるようになった盲人は遣わされたものとなり、会堂からの追放も恐れずに、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と主張します。

癒やされた盲人のイエスに対する理解は、「あの方」からはじまり、「預言者」、そして「神のもとから来られた」と変わり、最後には「主よ」ということばで信仰を告白するに至ったのです。

わたしたちも、罪を否定しようとするあまり、他人の罪を正そうとすることばかり考えて自分の罪に気づくことがおろそかになり、かえって自分が罪の中に留まってしまうという結果になってしまうことがないでしょうか。罪は、神に癒やしていただくべきもので、そのことによって神の栄光を世にあらわすこともできます。しかし、世間体を気にしたり、傲慢になったりして、自分は完全なものだと振る舞うならば、癒やすために来られたイエスを拒むことになります。このような頑なさこそが「罪」なのです。

サムエルとダビデ
Samuel anointing David in the midst of his brethren
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。