年間第5主日 A年(2017.2.5)

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 58:7-10

旧約聖書で「同胞」と訳される原語は、「兄弟」を意味しますが、今回の朗読で使われている「同胞」は直訳で「あなたの肉」を意味する、より密接な言葉が使われています。

『聖書と典礼』の注釈にもありますが、今回の朗読箇所の少し後に「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」(イザヤ60:19)とあるように、「あなたの光」の光の源は、神です。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 2:1-5

一般社会では、雄弁に語る人、機転の利く人、ミスをしない人、情報を多く知っている人など、人前で人間の言葉や知恵を目立たせた人が優秀とされています。しかし、神のよき道具となれるかは、そのような人間的な評価とは関係ありません。「ファリサイ派と徴税人」(ルカ18:9-14)や「やもめの献金」(マルコ12:41-44)のたとえ話にもあるように、神は、その人の表面上の姿、つまり人間が行うような評価ではなく、いつも心をご覧になられています。

神は、人間の言葉や知恵から見れば愚かな失敗とされる「キリストの十字架」によって、限りない愛、キリストの勝利と栄光を与えられ、世を救われたのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 5:13-16

「塩」は、味付けに使われ、食品の保存などにも使われます。「塩に塩気がなくなれば」とありますが、当時の塩は純度が低く、「塩気」が抜けてしまうということがあったようです。そうなれば、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」となります。また、料理の中で「塩」は溶けて姿を消し、料理全体や他の素材のために働くものです。

わたしたちキリスト信者は、イエスに出会い、イエスを知り、イエスとともに生きているはずです。イエスとともに生きるならば、イエスを通して、神からすでにイエスの味わいにたとえられた「塩味」という役割が与えられているのです。

同じように、「世の光」という役割も与えられています。イエスを通して帯びた「光」は、隠れることができないし、言葉と行いを通してあらわさないと役に立ちません。すでに様々な形で与えられている「光」を隠してしまわず人々の前で輝かせて、それを見た人々に光の出所を示す役割が与えられているのです。そうすれば、世の人々も神を知ることになります。

注意しなければならないのは、この「光」は、自分が作り出すものではなく、イエスを通して神から与えられる「光」だということです。新共同訳では、人間の努力によって自身の「光」を輝かせるように感じられるかもしれませんが、原文のギリシア語では三人称の命令形で書かれています。人間に光の源があるのではなく、神に光の源があり、神から与えられている「光」を「輝かしなさい」という意味なのです。つまり、わたしたちは、すでに輝いている「光」を妨げないようにすることを求められているのです。

自分の能力を誇り、自分の考えだけで行動するのではなく、祈りのうちに神に聞き、神の働きを邪魔しないようにすることこそ大切なことなのです。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

夜と曙のイザヤ
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『パリ詩篇』挿絵 (10世紀)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。