年間第3主日 A年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 8:23b-9:3

イザヤ書の8章23b節から9章6節まで続く、救い主(メシア、キリスト)に関する預言の前半部分です。

「異邦人のガリラヤ」とは、アッシリアによって取り上げられてしまったガリラヤという意味です。アハズ王を説得できなかったイザヤは苦しみますが、神が遣わす、平和をもたらす救い主(メシア、キリスト)に望みをかけます。

この平和は、神からくる平和であって、軍事力や人間の力に頼った安心ではありません。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 1:10-13、17

パウロは、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして」と述べますが、原文では「同じ」という意味の言葉を 3回繰り返して教会の一致を強く求めています。

現代でも、キリストよりも洗礼を授けた司祭(人間)との親しさを求めてしてしまっている場合が時々ありますが、キリストこそが「十字架につけられた」のであり、わたしたちは「キリストのもの」(一コリント3:23)となるために洗礼を受けたのです。

そのことを誤解をしないように、パウロはあえて自分が遣わされたのは「洗礼を授けるためではなく」と述べています。パウロが福音を伝えるのは、「わたしはパウロにつく」という人を誕生させるためではなく、「キリストのもの」となる人を誕生させるためだからです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 4:12-23、または 4:12-17

福音書の中で、マルコによる福音書が最も早く書かれたとされ、マタイとルカは、マルコ福音書もひとつの資料として書いたと考えられています。

今回の朗読箇所をみると、マルコでは「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、」(マルコ1:14)と書かれた箇所を、マタイは「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」(マタイ4:12-14)と書いています。

マタイは、イエスが「ガリラヤ」に移り住んだことを知り、今回の第一朗読の中にある預言者イザヤの語った「大いなる光」は、まさにイエスのことだと悟ったのです。イエスこそ「闇の中を歩む民」が見る「大いなる光」、「死の陰の地に住む者」に射す「光」であり、イザヤの予告する救い主(メシア、キリスト)だと気づかされたのです。この光は、人間的な力による光ではなく、神から来る光です。

聖書に記述された言葉は、出来事をとおして、今日、わたしたちにも語りかけています。「神の言葉は生きて」(ヘブライ4:12)います。好奇心の気持ちだけで読まず、いつでも祈りと一緒に、その意味がわかるために繰り返して読み味わいましょう。そうすれば、日常生活の中で、より生きた言葉になるでしょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

ガリラヤに旅立つイエスと弟子たち
Jesus and his disciples travelling into Galilee
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。