ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
この朗読の24-26節は、旧約時代に祭司が礼拝で会衆に向けて語っていた祝福の言葉です。この言葉を聞きながら、その恵みが与えられ、平安を賜るように祈りましょう。
神の子は、わたしたちの兄弟となるために、はじめから立派な大人として天から来られたのではなく、わたしたちと同じように赤ちゃんとして、一人の女性である聖母マリアからお生まれになったことを、聖パウロは教えてくださいます。
新年を、神の母聖マリアの祝日をもって、喜びのうちに始めましょう。
言うまでもなく、マリアが神の子を産んだというのは、それまで神は存在していなかったという意味ではありません。
マリアは、キリスト信者の生活の大切な要素である信仰と希望と愛において、非常にすぐれた模範を示しています。マリアの妊娠を知ったヨセフの苦しみに気づいたときにも、また、「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(ルカ1:32)と告げられた子が馬小屋で生まれても、たとえ神の計画がわからなくても、神の愛に対する信頼と従順を保ちました。
この朗読の場面でも、他の人たちのように不思議に思うだけでなく、「心に納めて、思い巡らし」、出来事の奥に目を向けて、それを温め続けていました。わたしたちも、そのようにしているはずです。
最初の神学者と呼ばれる聖イレネオ(2世紀後半)は、マリアを新しいエバと呼んでいます。というのは、エバがすべての人間の母(創世記3:20)であるように、マリアはすべての弟子の母(ヨハネ19:26-27)、キリスト信者の母だからです。
聖書には書かれていませんが、「飼い葉桶」に寝かせているという、とても貧しい状態の中で生まれた救い主に、羊飼いたちは貧しいながらも自分たちにできる範囲でプレゼントを持っていっただろうと考えられ、昔から物語が作られました。
その物語の中で羊飼いたちは、羊の乳から作ったチーズ、羊の毛から作った毛布など持っていきましたが、ある羊飼いの少年は、何も持っていくことができなかったのです。そのことを恥ずかしく思いながら、仲間がささげものをする姿を見ていました。自分が唯一持っているのは、羊の番をするときに使う小さな太鼓です。羊飼いの少年は、幼子イエスのそばに行き、心を込めて太鼓を叩きました。仲間の羊飼いたちは「そんな音の悪い太鼓を叩くと、幼子が驚いて泣いてしまうではないか」と言いましたが、ぐっすり寝ていた幼子イエスは目を覚まし、その羊飼いに向かって素晴らしい笑顔をなげかけたのです。
結局イエスは、ささげる物よりも、ささげる人の心を大事にされます。
わたしたちも、幼子イエスのもとにプレゼントを持っていかなければなりません。どのようなプレゼントを望んでおられるでしょうか? 幼子イエスのわたしたちに対する答えを聞きましょう。
(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。