年間第32主日 C年

第一朗読『マカバイ記』

二マカバイ 7:1-2、9-14

セレウコス朝のアンティオコス4世は、ユダヤ教を迫害して、エルサレムの神殿でゼウス神のための祭儀を行うように強要します。

この箇所から、正しいものは「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださる」というような「復活」についての記述が聖書の中に見られるようになります。イエスの「復活」の準備です。

第二朗読『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』

二テサロニケ 2:16~3:5

「悪人」とは、神に信頼せず神に信仰できない者、キリストのことばを受け入れずキリストの教えが広まるのを妨げる人です。

わたしたちが信頼すべきなのは、誤った教えを説く「悪人」ではなく、真実な方(キリスト)であるはずです。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 20:27-38、または 20:27、34-38

イエスのエルサレムへの旅は、終わりに近づいています。エルサレムに着き、神殿から商人を追い出して、毎日境内で教えているイエスを、祭司長や律法学者は陥れようとします。

「復活」は「蘇生」ではありません。「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない」とおっしゃられているように、この世の生活様式とはまったく違うものなのです。もし、この世の生活様式へ戻るなら「蘇生」であって「復活」ではありません。「復活」は、生き方そのものが新しくされることで、新たな命への「復活」です。

ですから、この世のありさまから推測して、「復活」の後のありさまを考えることはできません。

この世には「死」がありますから、子孫を通して自分を残そうとしますが、「死者の中から復活するのにふさわしい」人は、「もはや死ぬことがない」ので、「めとることも嫁ぐこともない」のです。新しい存在になり、すべての人が兄弟姉妹として生きることになるのです。

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」ですから、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というのは過去の話ではなく、現在でもそうであるという意味になります。神との交わりの中に、彼らは今も生きているのです。

わたしたちも、キリストと結ばれて生きるならば、その「永遠の命」を生き始めているのです。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

神殿で教えるイエス
Jesus preaching in the Temple
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。