ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
時々、神が祈りを聞いてくださらないと感じるときに、このような祈りの箇所を読みましょう。その時に、「信じます」と(心で)言いながら唱えるとよいでしょう。
この手紙が、パウロの遺言のようなものです。獄中で、ひとりぼっちですが、それでも神に信頼しながら、心安らかに死を迎えるのです。どんな時にも、神はそばにおられ、力づけてくださったと、パウロは確信しています。たとえ死ぬ時でも、その確信があるのです。パウロにとって、死は「栄冠」で、終わりのない幸福に入るのを待つということだけです。
「神には、ひとつ弱みがあります。神は、へりくだる人には甘いところがあるのです。」これは、教皇フランシスコの言葉です。へりくだって悔いている心からの祈りは、神のいつくしみと愛への扉を、大きく開くことができると強調されたのです。
「うぬぼれて」と訳されていますが、直訳では「自分自身を頼りにする」になります。つまり、イエスが非難した理由は「神に頼らずに、自分自身に頼った」ということになります。それは、自分自身の努力によって、自分を救おうとする生き方です。そして、自分自身に頼むものは、うぬぼれることになるのです。
わたしたちは、どうでしょうか?「こんなにも頑張ったのだから、どうか願いを聞き入れてください」という祈りになっていないでしょうか? 教皇は、このような祈りを「鏡を前にして、自分に向かって祈っている」と指摘されたのです。そこには神が不在で、神への祈りの気持ちとは、かけ離れているからです。
まず、神は、すべての人を愛していますから、罪人を退けたりはしません。そして、わたしたちの業績ではなく、心の中を、聞いておられるのです。
ただ「形だけ」のもの。それは、人からの評価を得ようとする、この世に属している人の行動です。他人をさげすみ、他人と比較して、自己満足する高ぶる人の姿、見せかけの祈りをする「堕落した人の姿」です。自らの善い行いを自画自賛する、むなしい祈りをささげることで、自分で自分を、「神」と「隣人」から遠ざけているのです。
一方、徴税人にできるのは、神のあわれみを願うことだけでした。自分に頼らずに、神の憐れみに信頼をおいているのです。「何も持たない手」を差し出して、裸の心で、自らを罪人と認めながら祈ること。これは、美しいことです。それが「信じる人の姿」であり、神のゆるし、神の恵みを受けるのに必要なことなのです。
このたとえ話が、わたしたち、すべてのキリスト者に向けて示していることは、「どれだけ」祈っているかではなく、「どのような心で」祈るかを、自らに問いかけなければならないということです。
(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。