年間第20主日 C年

第一朗読『エレミヤの預言』

エレミヤ 38:4-6、8-10

苦しみの中で希望をもつということは、聖書のすべてを貫き、どこにでもあります。御心に適う生き方をするために、ときには十字架に耐える必要もあります。そんなときには、希望を持つことが大切です。

わたしの子供の時に流行していた歌の歌詞を思い出します。「人生の中で、誰もがつまずいて転ぶことがある。わたしのつまずきは特別にひどかった。」でも、聖書は次のように答えます。「神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。」(箴言24:16)

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 12:1-4

キリストは、いつもわたしたちとともにおられます。苦しい時にも、死を迎える時にも、ともにいてくださいます。あるとき誰かが言いました。「神が、わたしたちを救うために十字架で死んでくださったことの意味が分かっているなら、誰でも聖人になって、キリストのためにどんな犠牲でも喜んでささげるだろう。」

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 12:49-53

残念なことですが、キリスト信者の中には、聖書に書かれていることは理想で、そんなことでは現実は生きていけないと考えている人がいるようです。しかし、わたしたちは「二人の主人に仕えることはでき」ません。「一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらか」です(ルカ16:13)。

もし神に仕えるならば、この世的な生き方は捨て去り、神の国を受け入れ、心から主の祈りを唱え、よろこびをもって神に協力しているはずです。しかし、自分を捨てることは大変な決断ですから、ときには自分の中で、家族の中で、また、教会の中で分裂が起こることもあるでしょう。

信仰と愛をもって耐え忍んだ苦しみは、遅かれ早かれ幸福をもたらすことを聖書は何回も強調しています。いくら苦しみのどん底にいても、キリスト信者は神の助けによって希望を持つことができます。今のこの苦しみは天罰ではなく、また運命でもなく、なにか良いことをもたらすための、苦しいけれども愛に満ちた神のご計画なのです。

また、喜びは苦しみの後だけに来るのではありません。苦しみの中にも喜びがあると、使徒たちの手紙の中にたびたび出てきます。「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41)、「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています。」(2コリント7:4)、「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」(1ペトロ3:14、※ペトロの第一の手紙は全文を通して何回も繰り返します)

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

エルサレム破壊を嘆くエレミヤ
Rembrandt Harmensz. van Rijn - Jeremia treurend over de verwoesting van Jeruzalem - Google Art Project
Rembrandt (1630)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。