年間第16主日 C年(2016.7.17)

第一朗読『創世記』

創世記 18:1-10a

アブラハムは、見知らぬ人々を自分のテントに迎え入れて、心からもてなしましたが、実は、それは神ご自身を受け入れることになりました。

「小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われるキリストの言葉は、このように二千年前に実現されました。

第二朗読『使徒パウロのコロサイの教会への手紙』

コロサイ 1:24-28

聖パウロは、わたしたちの苦しみの偉大さと価値を教えます。わたしたちは苦しみを通して、キリストの救いのためにどうしても必要な協力を果しているのです。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 10:38-42

この箇所について、いろいろな解釈がありますが、他の場合と同じように、最後の言葉が、前の箇所の意味を知るカギになります。なぜ、マリアの選んだ方がより良いのでしょうか。

19世紀の終わりに、非常に流行った「Philanthropia」(友として人種をみる、すべての人を友達としてみる)という考え方があります。いうまでもなく悪くないですけれども、ぜんぜん足りません。なぜなら、神との関係が無いからです。したがって、人から不親切や失礼ことをされたときには、その人に対して友として見ることができなくなります。神からの真の愛徳であるならば、その人さえ愛することができます。

マリアのように、神のみことばを聞く(=聞き従う、愛する)ということが、一番大事です。そのことなしに働くならば、わたしたちの愛の活動は、弱く低いものになってしまいます。ある時、アルペ神父がイエズス会員に向けて次のことを言われました。「神の愛から、人々に対する愛が流れるはずです。そうでないと、イエズス会は赤十字やNGOのようなものになります。」これは、すべての人にとっても同じで、神のみことばを聞く、神との関係、神から力をいただくことが第一優先のことです。他のどんなことよりも第一です。神のみ言葉を聞く、つまり、愛と信仰によって神と強く結ばれているならば、なんでもできるはずです。それが、マリアが選んだ方です。

この箇所を誤解してしまう原因のひとつは、"神のみことばを聞く"ということを単に聖書を読むだけだと考えてしまうことです。その言葉によって生きて実行しなければ、"神のみことばを聞く"ことにはなりません。聖書について非常に詳しいけれども神のみ言葉を聞いていないという人も残念ながらいます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

アブラハムのもてなし
The Hospitality of Abraham
アテネ ベナキ美術館 (1375-1400)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。