年間第13主日 C年(2016.6.26)

第一朗読『列王記』

列王記上 19:16b、19-21

預言者エリヤの神の呼びかけに応えるために、エリシャは自分の生活の大事なものである"牛の軛(くびき)と牛の装具"を捨てます。

そのような寛大で明確な態度を、わたしたちも持っているでしょうか?

第二朗読『使徒パウロのガラテヤの教会への手紙』

ガラテヤ 5:1、13-18

613もの掟を持つと言われていた"律法という軛"から、キリスト者は解放されています。しかし、"愛の掟"については、どこまでも実行しなければならないという事を聖パウロは教えます。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 9:51-62

今回の御ミサの中心的なテーマは、神の呼びかけに対する熱心なこたえです。福音朗読には、4つの出来事が書かれています。それぞれ、違ったとき違った場所での出来事を、ルカはまとめて一緒に書くことで、キリストの弟子になる条件と準備について明らかにしようと思ったに違いありません。

まず、キリストの弟子になるならば、非常に厳しい生活をする覚悟が必要です。そのことを「どこへでも従って参ります」と言う人にも、イエスは言われます。最初のサマリアでの歓迎されない話はひとつの例になりますが、軽蔑され差別される覚悟がどうしても必要なのです。現代のどこでも(日本でも)、そのような覚悟は必要になります。ある信者の教会から離れてしまった理由は、その覚悟がなかったからでした。

次の話で、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」というのは厳しすぎるようにみえます。旧約時代には、死者を葬ることは愛のあることで、きちんと死者を埋葬するように勧められています。(トビト記4:17など)しかしながら、時には、よりよいことのために、ひとつのよいことをやめなければなりません。つまり、いのちそのものであるキリストの呼びかけにこたえるために、死者を葬ることを他の人にまかせるということを意味しています。たとえば、マザー・テレサは、上流階級の娘が通う学校の校長として非常に大事なことをしていましたが、見捨てられた人々を世話するようにというキリストの呼びかけにこたえるために、それを辞めました。確かに「死んでいる者」というのは厳しい言い方ですが、いのちそのものであるキリストが傍を通っているのに、キリストと結ばれないのは、いのちを捨てているという意味になります。

最後の話には、注意すべきことがあります。それは、第一朗読の時代の1000年後で、素朴な生活をしていたエリシャの頃のようにすぐ従うことはできなかったということです。別れの宴会を含めて一週間かそれ以上かかるかもしれません。とにかく、キリストの呼びかけは非常にありがたいことですから、タイミングを逃さないように、すぐさま「はい。」と言って従わなければならないという意味になります。

すべてのキリスト信者は、それぞれの使命や召し出しをいただいています。そのことに忠実にこたえる事は、わたしたちの幸福への道です。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

ホレブ山のエリヤ
Elijah in the desert of Horeb
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。