年間第12主日 C年(2016.6.19)

第一朗読『ゼカリヤの預言』

ゼカリヤ 12:10-11、13:1

ゼカリヤ預言者は、ダビデの家とエルサレムの住民にキリストの死がもたらす悲しみと回心を予言します。しかしながら、それは彼らだけにではなく、わたしたちにもその恵みがいただけるように努力しなければなりません。

第二朗読『使徒パウロのガラテヤの教会への手紙』

ガラテヤ 3:26-29

キリストと結ばれた人たちに、差別は少しもありません。みんなアブラハムがいただいた祝福の約束を受ける者であります。

最初の教会の危機(使徒言行録やパウロの手紙を理解するために)

21世紀を生きるわたしたちにとって、どうしてその問題(危機と争い)があったのか、どうしてすぐに答えがわからなかったのか、時々わかりません。したがって、いろいろな聖書の箇所(使徒言行録やパウロの手紙)もわからなくなります。その問題(危機と争い)とは、異邦人もユダヤ人と同じように律法を守って割礼を受けなければならないか?という問題です。

最初の教会の時代のキリスト信者は、圧倒的にユダヤ人でした。そのため、洗礼を受ける異邦人(ユダヤ人ではない人)も、義とされるためには、すなわち救われるためには、自分たちユダヤ人と同じように律法の掟を守り、割礼を受けなければならないと考える人たちがいました。(その掟は613もあり、今でも守ろうとするユダヤ人がいます)

この問題の答えは、ペトロにとっても、はっきりしていませんでしたが、神の幻によってわかり始めます。(使徒言行録10)時々批判があり、ペトロは曖昧な態度をとっています。(ガラテヤ2:11-13)そして、パウロの宣教活動により、大勢の異邦人が信者になるようになって、律法(特に割礼)のことが、より鋭く問題になります。(使徒言行録15:1)エルサレム会議(使徒言行録15:6-30)の決定は、アンティオキアの教会だけに対する決定と思われて、まだ問題が残ったようです。キリスト信者でありながら、ユダヤ教徒の考え方に染まっている人々は、律法を守らなければ義とされない(救われない)と思っていたのです。このようなキリスト信者は、ガラテヤの教会などに多いです。けれども、それは人間の力で律法を守って、"自分で自分の力によって自分を救う" ということです。パウロが言った通り、キリストの救いは無意味で不必要になります。(ガラテヤ2:21)これは、とても中心的なことですから、パウロは激しく批判します。

現代の信者の中にも、時々いくらかその考え方があります。たとえば、十戒を守ることによって、天国への切符を買おうとしています。それは、大きな間違いです。その切符を人間の善い業によって買うことはできません。もっと高価なものです。たとえて言えば、5円で何億円もの価値がある立派な屋敷を買おうとするようなことです。わたしたちの協力による5円は必要ですが、比べることができないほどのキリストの限りない功徳が必要なのです。(ある宗派によっては、その5円すら必要ないと言いますが、間違いです) そして、キリストの限りない功徳によって救われるのは、律法ではなく「信仰」によるものです。他にもパウロが同じ意味で使う言葉に、「キリストに結ばれる」「キリストを着る」「ただで救われる」などがあります。パウロの言う「信仰」は、だいたい狭い意味ではなく、希望と愛とを含む言葉です。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 9:18-24

ユダヤ人は、政治的なメシア、つまり戦ってローマを打ち破るようなメシアを待ち望んでいました。ですから、イエスは活動の初めから自分がメシアであるということをはっきり言わずに遠慮してきました。今回の出来事のとき、初めて自分がメシアであると認めたのです。それは、公生活をはじめて2年半頃、ご受難の6か月前頃のことです。しかし、誤解されないように、その救いは政治的なことではなく、苦しみを通して行われることを付け加えられました。結局、十字架を仰いでキリストのご受難を振り返れば、これほど神はわたしたちを愛してくださったと、わたしたちに対する神の愛と罪の重大さを悟ることになります。

その後でイエスが皆に言われた内容について、フランシスコ・ザビエルが書いた手紙があります。ザビエルは、日本に来る前、今のインドネシアにまで足を踏み入れました。けれども、島の人々は、非常に野蛮で残酷でしたから、ザビエルの友達は、彼に行かないように警告しました。ザビエルは、島に行けば必ず殺されると言われていたので恐怖を感じ、その時の気持をヨーロッパに出した手紙に、次のように書いています。「『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、キリストのために命を失う者は、それを救う』という聖書の言葉の明らかな意味は、恐怖によってわかりにくくなります」それでもザビエルは、その恐怖に打ち勝って出発します。そして、言葉では言い尽くせない危険や苦しみもありましたが、それとは比べられないくらい大きな喜びを神から受けたのです。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

わたしを何者だと言うのか
Jesus asking his disciples whom the people say he is
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。