キリストの聖体 C年

第一朗読『創世記』

創世記 14:18-20

復活節が終わってから、わたしたちの信仰をまとめる二番目の祝日は「キリストのご聖体」です。わたしたちの目では見えませんが、キリストはご聖体によってわたしたちとともにおられるし、わたしたちのこころの食物になり、御父に対するわたしたちの奉献になってくださいます。

メルキゼデクが持って来たパンとぶどう酒は、キリストの奉献を前もってあらわすしるしになります。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 11:23-26

イエスはパンとぶどう酒を御体と御血に変えてから、さらに「わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と言われました。この言葉によって、使徒たち、またその後継者に、パンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変えるという不思議な力を与えられました。ミサの中心となる聖変化の時に、司祭は個人としてではなくキリストとなってこの言葉を繰り返し、パンとぶどう酒をキリストの御体と御血に変えます。聖体を拝領した人々は、永遠の命を受け、キリストによって生きる者となり、復活の種を受けるのです。

カファルナウムの会堂での説教で、イエスはご自分の体と血を命の食べ物として約束すると同時に、何度も信仰の必要性を強調されました。ですから、信仰なしに聖体拝領をするならば、少しも恵みはありません。信仰の程度に差があれば、いただく恵みにも差があります。そして、聖書に書かれてあるとおり、信仰は見えざるものを見えるように感じることです。(ヘブライ11:27)

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 9:11b-17

パンを増やす奇跡は、4つの福音書に書いてある唯一の奇跡です。ヨハネが福音書を書いた時代には、マタイ・マルコ・ルカの福音書はすでに教会に広まっていたので、ヨハネは出来る限り既に書かかれていたことを繰り返さないようにしました。しかし例外として、このパンを増やす奇跡は書かれています。それだけではなく、マタイとマルコの福音書では、他の場面でもこの奇跡があったことをイエスは思い起こさせます。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。」(マタイ16:9)「『わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは、『十二です』と言った。」(マルコ8:19) さらにヨハネは、奇跡であるということを強く伝えるために、籠のパン屑は、その五つのパンからの屑と書いています。

イエスの行った奇跡には、共通点があります。まず、神の力の表現であるとともに、神の愛の明らかなしるしでもあります。奇跡は皆を驚かせるためではなく、社会から見捨てられた人々ために、悲しんでいる人々のために行われました。そして、死も悲しみも苦労もない国の姿をかいま見せてくれます。神は苦しみを消し去るよりも、その苦しみからさらに良いものを与えてくださいます。また、苦しみを通して永遠の幸福の命へとわたしたちを導いてくださいます。これらのことは、パンを増やす奇跡からもうかがい知ることができます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

アブラハムとメルキゼデク
Abraham meets Melchisedech (San Marco)
Basilica di San Marco, turistic book (13th century)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。