三位一体の主日 C年

第一朗読『箴言』

箴言 8:22-31

旧約聖書には、三位一体のはっきりした教えはありません。それは、キリストご自身の新しい教えです。けれども、第一朗読で聞く神の知恵のご自分についての話は、三位一体の二番目の位格、永遠の神のことばの存在を暗示します。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 5:1-5

キリストによって導き入れられ、聖霊によってわたしたちの心に注がれた愛によって、神である御父のもとに歩んでいると、聖パウロは教えてくださいます。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 16:12-15

復活節が終わってから迎える三つの大きな祝日は、ひとつずつ異なった側面からわたしたちの信仰をまとめます。三位一体の祝日では、まことの神が、わたしたちが想像したり考えたりするよりも、はるかに無限の方であると教えます。

最初の時代から、キリスト信者の御父は神であり、イエスも御子として神であり、聖霊も神であることを信じました。けれども、三つの神があるということではなく、あくまでも唯一の神であると信じたのです。しかし、「父」「子」「聖霊」という言葉は、同じ者の三つの肩書のようなものではなく、違った方を示しているのは明らかです。なぜなら、父が子を遣わし、また子の代わりに聖霊が来られたからです。自分が自分を遣わすことはできないし、自分が自分に代わることは意味のないことです。そうすると「父が神であり、子も神であり、聖霊も神である」と「三つの神ではなく唯一の神である」という二つの信仰宣言に矛盾を感じる人もいるのではないでしょうか。

わたしたちは、神が人間よりも限りなく優れている方であり、人間が考える基準は神にあてはまらないということはわかっています。人間の限りある知恵では、限りないことを突き止めることはできません。神の本質は、人間には理解できないのが当然です。数学でも、無限大+無限大は二つの無限大にはならず、たったひとつの無限大になります。もし、徹底的に神について理解できたというなら、それは神のイメージを勝手につくりあげただけでしょう。人間に理解できる限度の神をつくってしまうのは危険なことです。あらゆる国で、人々はそのような間違いを犯しました。

三つの「位格」を示すために、最初の教会の時代の神学者は「ペルソナ」というギリシア語を使いました。人間の言葉を神にあてはめるのは無理がありますが、「父」「子」「聖霊」が三つのペルソナであるということは、父は子ではなく、子は聖霊でもないという意味です。教会では、この信仰を「三位一体」の奥義と呼んでいます。

教会の中心でありキリストの救いの再現であるミサでは、三つのペルソナは違った役割をなさいます。御子は、ご自分の兄弟姉妹(人々)のために、ご自分を御父に捧げます。御父は、この奉献によって聖霊の恵みを注いでくださいます。また聖霊は、信者たちに祈りを起こさせて導いてくださいます。

全能永遠の限りない神について、もっと深くまことの信仰をもてるように祈りましょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

三位一体の神
Angelsatmamre trinity rublev 1410
Andrei Rublev (1400s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。