ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
教会の最初の時代の大きな問題と議論は、キリスト信者になるために割礼を受け、イスラエル人にならわなければならないかどうか、という事でした。エルサレムで公会議を開いて、そうではないと使徒たちは決めます。
神の国(天国)の素晴らしさは、人間のことばでは言いあらわすことができません。けれども、他の方法がないので、ヨハネは今、色々なたとえをもってその素晴らしさをわたしたちに伝えるように努力します。わたしたちは、そのたとえを超えて、そこに入る希望を起こしましょう。
神殿は、神が特別におられるところですから、キリストは自分が真の神殿であるとおっしゃいました。(ヨハネ2:19-21) キリストには神性が存在しています。結局、キリストは、人間でありながら同時に真の神です。
ある聖書学者は、「キリストは、例えば手で、あるいは他の形で、壊される神殿が自分の体であるということを示しただろう。でも、キリストの弟子たちと敵は、その言葉の意味が、その時にはわからなかった。」と言います。また、他の学者は、「キリストは、ただ疑問を起こすために意味がはっきりしない言葉をおっしゃって、聞いている人々がその疑問の意味がわかるように努力を起こそうと思っておられた。」と言います。
今回の第二朗読にあるとおり、黙示録では天国に神殿がありません。「全能者である神、主と小羊(キリスト)」がその神殿です。(黙示録21:22)
確かに、ご聖体による肉体的なキリストの存在は違いますけれども、聖性の恩恵によって、神がわたしたちの心の中におられるということを忘れてはいけません。わたしたちのところにおられる神とキリストの神秘的な存在を、もっと自覚しなければなりません。お御堂ではない場所で祈る時に、雲の上の遠いところにいる神やキリストに対して祈るのではなく、自分の中に住んでいる御父やキリストに対する祈りであるべきです。
最初の時代の信者たちは、これをもっと自覚していました。例えば、後で殉教者になったオリゲネスの両親は、洗礼によって神殿になった自分の子供(赤ちゃん)の前で、その子供の中におられる神に向かって礼拝していたそうです。
(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。