復活の主日

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 10:34a、37-43

時々、わたしたちは、なぜクリスマスではなく、キリストの復活が"最高の祝日"であるのかわかりません。しかし、キリストは神に遣わされた独り子であるということの決定的な証明として、ご自分の復活を予告されました。したがって、使徒たちの最初の宣教は"キリストの復活"です。大勢のユダヤ人にとって、信じるために最初の出来事は、あの空っぽであったイエスの墓でした。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 5:6b-8

キリストの復活は、わたしたちの復活も含みますので、わたしたちは新しい命を生きなければなりませんと、パウロはわたしたち一人ひとりに呼びかけます。その呼びかけに応える決心をいたしましょう。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 20:1-9

信者でも、たびたびわからないのは、キリストの復活とわたしたちの復活との密接な関係です。毎日曜日に"体の復活"あるいは"死者の復活"を信じると宣言しているのに...。

もし霊魂だけが永遠の幸せを受けるなら、何とも不完全な感じでしょう。結局、わたしたちの体も神の業です。そのうえ、御聖体の約束の説教(ヨハネ6:26-59)の時に、イエスがおっしゃったように、信者の体は御聖体拝領によってキリストの体に触れて、わたしたちの体に復活の種がまかれます。

どれほどの喜びと慰めを"体の復活"の信仰が与えるか、いつか読んだひとつの出来事が、それを知らせました。ある司祭が、復活についての説教をしました。ミサが終わってから、教会の入口にいた青年が必死に司祭に聞きました。「説教で言ったことは、本当ですか?」そして、続けました。「愛する母が亡くなった時に、わたしは外国にいました。家に帰った時には、もう葬式が終わっていて、遺骨しか見ることができなかったのです。わたしの愛する母が、煙とあの小さな骨になったということは、わたしにとって耐えられないことでした。もう一度、長い間会っていなかった母親が生きているうちに、どうしても会いたかった。今日は、それが出来ると知りました。これ以上の喜びはありません。」と泣きながら話したそうです。この説教で、復活のキリストの約束が、長い間の悲しみを完全に慰めへと変えたのです。

わたしたちは、みんな同じことです。わたしたちの愛する人々は、みんな良い人でした。ですから、わたしたちは愛しています。信者だった方は、この信仰のうちに希望をもって亡くなりました。洗礼を受けていなかった親戚や友達も、御ミサで言うように、知っている限り"御心に適う生活をした"と、わたしたちは信頼しなければなりません。ですから、もう一度出会うだけではなく、幸せのうちに、喜びのうちに、完全な愛のうちに出会うことを、わたしたちは信じましょう。
これこそ、復活の意味であります。キリストの復活と、わたしたちの復活です。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

復活したイエスとマグダラのマリア
Jesus revealing himself to Mary Magdalene
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。