受難の主日/枝の主日 C年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 50:4-7

今回の朗読箇所の預言者イザヤのことばによって、イザヤ書の中に書いてあるご受難に向かうキリストの愛のこころをならいましょう。

第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』

フィリピ 2:6-11

ご受難によって、神であるキリストはどれほどへりくだったかをあらわすために「無」という大袈裟なことばで言わなければならないと聖パウロは感じました。このパウロの熱心なことばを、わたしたちも同じく感じるように聞きながら祈りましょう。

受難の朗読『ルカによる主イエス・キリストの受難』

ルカ 23:1-49

キリストは、自ら進んで敵の手に自分を渡し、苦しみと死を迎え、そして、人々に教えてきたことを苦しみの中ですべて行われました。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6:27)と命じたキリストは、十字架に自分をかけただけでなく、自分の苦しみに侮辱を浴びせる人々のために「父よ、彼らをお赦しください」と祈られます。

人々に希望を与えてきたキリストは、十字架の上から隣の十字架にかけられ回心した盗賊にも「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、希望を与えました。

いつも父である神に従い信頼するよう教えたキリストは、苦しみと心の暗闇に打ち勝ち、溢れる信頼をもって「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と、最後の言葉を叫びます。そして、息を引き取られました。

「友のために命を与える以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:15)とキリストは前夜におっしゃいました。その言葉通りにキリストは行われました。「わたしを愛して、わたしのために命を捨ててくださった神の子の信仰に生きている」(ガラテア2:22)というパウロの言葉によって、わたしたちはいつも生きなければなりません。

キリストの苦しみは終わりました。しかし、キリストの歴史は、二千年前に終わったのではありません。ここからキリストの勝利が始まります。そしてキリストは、今なお生き続けておられます。多くの国々では、勲章さえも十字架の形になります。おそろしい死刑の道具であった十字架は、キリストの死によって栄光のしるしになりました。すべての人々に、影響を及ぼし続けられているのです。

イエスは、世の終わりまで罪を犯す人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈っておられます。わたしたちも、「わたしは、何をしているかわからない者です。 わたしのために、ゆるしを御父に頼んでください。 御血によってわたしを清めて、新しい人になるように導き、強めてください。」と祈りましょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

十字架のキリスト
Crucifixion
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。