四旬節第4主日 C年

第一朗読『ヨシュア記』

ヨシュア 5:9a、10-12

40年間、神はイスラエル人を奇跡の食べ物"マナ"で養ってくださいました。その後、新しい国、乳と蜜の流れる土地の収穫物で養ってくださいました。
神に導かれるなら、どんな状況におかれても不安に負けてはいけません。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

二コリント 5:17-21

キリストは、罪がないのに"罪"となり、罪人の代表者として神との和解をしてくださったというありがたい恵みを、パウロはわたしたちに思い出させます。

わたしたちは、その恵みを十分に悟っているでしょうか。
十分に感謝しているでしょうか。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 15:1-3、11-32

わたしたちに対する神の愛と憐れみを見事にあらわすたとえ話が、今回の福音朗読です。信者は、このたとえ話に慣れているから、時々、その素晴らしさを深く感じない危険があります。

このたとえ話を初めて聞いて、どう終わるかを知らない方々が、帰ってきた放蕩息子に父親がどうするかと聞かれると、ずいぶん違うことを予想するでしょう。ある人は、「数年前、わたしの次男が身勝手に外国へ行ったので、わたしにとっては、もう死んだものと思っている。」と言いました。他の人は、父親が「無駄にしたお金を儲ける時まで雇い人として働いてからゆるしてやろう。」と言う答えがあり、イエス様が作ってくださった答えが当たり前ではありません。

けれども、それだけではなく、小さな素晴らしいことがたくさんあります。父親が「まだ遠く離れていた」のに息子を見つけたのは、帰るはずの道をずっと見て、帰ることを待ち望んでいたということです。やっと帰ったとわかった時に、「わたしのそばに来てどういう話をするか見ましょう」という態度をとらずに、迎えに行きます。迎えることだけではなく、走って迎えにいきます。雇い人になる話を言わせません。いくら悪いことをしたとしても、自分の子供です。乞食の姿としていることが耐えられず、僕たちに良い服ではなくて、「いちばん良い服」を持ってくるように言います。「指輪をはめてやり」、「履物を履かせ」ます。「肥えた子牛」のことは、いろいろな国の習慣をよく知らないと、どれほどのことかわかりません。家族でお祭りのために一年間かけて子牛を養って太らせます。ですから、その祭りの時ではなく、まだ十分に太っていないのに、今、食べてしまうのはもったいないことです。それでも、祝宴をしたのです。

残念ながら、ある信者は、この話には素晴らしさがなく、依怙贔屓(えこひいき)の話だと言います。しかし、まず、お兄さんの話には嘘があります。父親はずっと前に「財産を(兄弟)二人に分け」ていますから、「子山羊一匹すらくれなかった」というのは嘘です。そのうえ、わたしが正しいものであり、「言いつけに背いたことは一度もありません。」と言っています。罪人であると自覚していない限り、このたとえ話はわからないし、キリストの他の言葉「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:13)」という言葉もわかりません。

わたしたちにとって、神の憐れみがどれほど必要であるか、また実際にどれほど大きく豊かに憐れみをいただいているか、このたとえ話を読んで祈りましょう。そして、放蕩息子のゆるしをたのむ言葉をかりて、わたしたちも祈りましょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

放蕩息子の帰還
Rembrandt Harmensz. van Rijn - The Return of the Prodigal Son
Rembrandt (circa 1668)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。