四旬節第1主日 C年

第一朗読『申命記』

申命記 26:4-10

イスラエル人が収穫の初物を神に捧げる時には、このイスラエル教(後のユダヤ教)の簡単な信仰告白をするように、モーセは命令しました。同じように、カトリック信者も、神に選ばれ特別に恵まれて成長してきたということを信じて、心の中で告白しましょう。

信仰告白は、短いものから長いものまでいろいろあります。日曜日にミサで唱えるのはそのひとつです。今回の第二朗読に一番短いものがあり、もう少し詳しく『使徒パウロのコリントの教会への手紙』(一コリント 15:3-8)、他にもニケア公会議で定められた『ニケア・コンスタンチノープル信条』(381年)などがあります。現代では、残念ながらあまり知られることがありませんでしたが、パウロ6世による『神の民のクレド』(1968年)もあります。長さは違いますが、実際は同じものです。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 10:8-13

ここに「イエスは主である」という一番短い信仰宣言があります。

「心で信じて」と「口で公に言い表して」は、実際は同じことです。「義」と「救われる」もまた、実際は同じことです。これは、レトリック(修辞学)で、同じことばを繰り返さないようにして同じことを示しています。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 4:1-13

悪魔がイエス様を人形のように動かしたり運んだりすることは考えられませんから、全部たとえ話のように解釈する人もいます。確かに、悪魔の誘惑は物質的な解釈をしてはいけませんが、悪魔の誘惑を受けたキリストがそのように感じて想像したと解釈しなければなりません。世界のすべての国々を見ることが出来る場所は、地球上にはひとつもありません。もし、神殿の屋根の端に立たせたとすれば、エルサレムの人々がびっくりしたでしょう。けれども、この悪魔の誘惑を事実であるかのようにキリストは感じました。荒野での3つの誘惑には、非常に意味があります。救い主を謙遜と苦しみの道から離れさせるのが悪魔の目的でした。(イザヤ 52:13-53:12、4番目の『主の僕の歌』)悪魔は、まだキリストの本質をわかっていなくて、単なる人間、単なる預言者と思っていたようです。悪魔は堕ちた天使ですが、とても力があります。神様がゆるしている限り、イエス様の想像を侵すことができます。

キリストのお受けになった誘惑は、わたしたちキリスト信者も受ける誘惑だと思われます。信仰は、自分の楽のため(ここでは「パン」)だったり、困ったときの神頼み、または、名誉のためではいけません。悪いことのためだったら、悪魔に仕えることになります。

ルカとマタイの福音書では、誘惑の順序が違います。聖書学者によれば、より詳しいのはマタイとされます。なぜなら、ルカはキリストの公生活をエルサレム(ゴルゴダ)へ向かう旅物語として描くので、この順序で書きました。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

荒野の誘惑
Briton Rivière - The Temptation in the Wilderness
Briton Rivière (1898)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。