年間第5主日 C年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 6:1-2a、3-8

今回の第一朗読と福音朗読の共通点は、神の呼びかけと人間のこたえ(召し出し)ということです。

預言者イザヤの朗読は、旧約の中で非常に重要なところです。「聖」という言葉の意味は、道徳的な正しさというよりも、人間とはまったく違うということです。神の偉大さと人間は違います。時々、すべてを超えるという意味になります。そのようなわけで、もし人間が神の顔を見たら死ぬと思っていました。モーセも神に「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20)と言われます。ですから、預言者イザヤも、同じように資格が無いため死ぬのではないかと思っていました。

たびたび御ミサの時に、神の御前にわたしたちは「無」に等しい存在であるということを自覚して、礼拝の心を思い起こしましょう。このことを悟るならば、神が「わたしたちの父」であり「愛」であるということの、その素晴らしさがもっとわかります。

注意すべきなのは、神がイザヤに行くようにと命令するのではなく、間接的に「誰が我々に代わって行くだろうか。」と聞かれていることです。「預言者」とは、この意味です。イザヤは、自分からすすんで自分を捧げ、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」とこたえます。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 15:1-11、 または 15:3-8、11

パウロは、非常に簡単に、わたしたちの信仰の中心的なこと、すなわちキリストの復活のことをコリントの信者たちに思い出させます。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 5:1-11

この場面を時系列で考えた場合、今回のルカの福音書の「不思議な大漁」の場面とヨハネの福音書をどういう風に組み合わせるべきかという問題があります。具体的には、ペトロとヨハネが、ヨハネの福音書(ヨハネ1:35-51)に書いてあるように、キリスト出会った後ずっと一緒にいてエルサレムまで行ったのか、あるいは、一度ガリラヤに帰って両親や雇い人と漁の仕事をもう一度やり、この「不思議な大漁」の後から一緒に行動したのかです。たぶん後者で、一度いつもの生活に戻っていたのでしょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

奇跡の漁り
Miraculous Draught of Fishes
Raphael (1515)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。