主の洗礼 C年(2016.1.10)

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 40:1-5、9-11

メシア(救い主)が近づいてくる、そのもたらす恵みによって、喜びと希望を預言者イザヤが見事に歌います。福音書に述べられる洗礼者ヨハネの活動によって、この預言が実現されます。

第二朗読『使徒パウロのテトスへの手紙』

テトス 2:11-14、3:4-7

キリストのあらわれを信じたわたしたちが、どういう風に生きるべきであるか、聖パウロが教えます。わたしたちが何か良いことをしたから、その報いとしてキリストが来たわけではありません。自分の業(力)だけで救われるのではなく、キリストの憐れみがどうしても必要です。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 3:15-16、21-22

どうして主イエスが洗礼を受けなければならないのでしょうか。この当たり前の質問の答えは、聖パウロの驚くべき言葉にあります。「罪と何のかかわりもない方(キリスト)を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(2コリント5:21)という言葉は、キリストがお受けになった御父の計画によって、キリストは罪人の代表者であるということです。このようなわけで、キリストは罪がないのに罪人であるようになります。洗礼の時だけでなく、ご受難の時にも、キリストは自分の兄弟であるわたしたち罪人の代表者です。例えて言えば、ひどい牢獄にいる人々を、白い馬に乗りシミの無い立派な服を着た王子が解放したというわけではなく、キリストは、ご自身が暗闇と悪臭の牢獄に入り体験してから、他の牢獄にいる人々を解放してくださったのです。似たようなことが、聖パウロの他の手紙にも書かれていますし、預言者イザヤ(53:6-8)も同じようなことを書きました。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ8:3)「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)

水で洗うことによって何かを清めることは理解できると思いますが、火で清めるというのは、わたしたちにとって理解しにくいことです。しかし、あの時代、純粋な黄金を作るためには火の中に入れると言うことを皆が知っていました。ですから、火で清めると言うことは、水で清めるよりも強い力があるということになります。ヨハネの洗礼とキリストの洗礼は、そのように違います。ヨハネの洗礼は、ただ罪人であることを認めて神の赦しをたのむものです。キリストの洗礼はそれだけではなく、聖霊が注がれ、わたしたちを強めて、すべての罪を赦し、神の子供とします。

そして今、御父は、キリストが自分の愛する子供であることを荘厳に宣言なさいます。今日は、わたしたちの洗礼の恵みについて反省し、感謝する日でもあります。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

キリストの洗礼
:Guido Reni - The Baptism of Christ
Guido Reni (1622-1623)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。