聖家族 C年

第一朗読『サムエル記』

サムエル上 1:20-22、24-28

関係を理解するために、『聖書と典礼』の下の注釈または『聖書』で前の部分を読むとよいでしょう。神殿の司祭たちは自分の土地をもっていませんでしたから、信者たちからいただくものによって生活をたてていました。「三歳の雄牛一頭」「麦粉を一エファ」「ぶどう酒の革袋を一つ」を準備したハンナは、とてもおいしいものを用意したことになります。

答唱詩編

詩篇 84:2+3、6+7、8+9

歌として非常に美しい詩編ですが、最初と最後の言葉が今回の『聖書と典礼』には含まれていないので、『聖書』か『典礼聖歌集』で読むべきです。神殿に行く喜び、永遠のふるさと(天国)に行く喜びをあらわす歌です。

第二朗読『使徒ヨハネの手紙』

一ヨハネ 3:1-2、21-24

ヨハネはこの箇所で、わたしたちの信仰の中心的なことを強調します。「○○と呼ばれる」というのは、ヘブライ語で、○○であるからその通りに呼ばれると言う意味になります。例えば、洗礼者ヨハネについて、そのお父さんは「お前はいと高き方の預言者と呼ばれる」と言いましたが、「お前はいと高き方の預言者」になるという意味になります。同じような「○○と呼ばれる」という表現は、イザヤ54:5、イザヤ62:4、箴言24:8 などにもあります。

しかしながら、このヨハネの手紙を受ける人は、イスラエル人よりもギリシャ語を話す人々であるので、ヨハネは「わたしたちが神の子と呼ばれる」と書いた後「事実また、そのとおりです。」と加えます。神が私たちの父であることは大袈裟ではなく、驚くべきことですけれども事実です。わたしたちは簡単に「天におられるわたしたちの父よ」と言いますが、本当にそれを言うことは驚くべきことです。昔から、ごミサの時に(今の訳はそうではなくなりましたが)、「天におられる父」と先にあえて言っていました。

パウロも、このことを強調します(ローマ8:15)。ヘブライ語の「親」は普通の言葉では「アッボニ」であり、「アッバ」は小さい子供が自分の愛するお父さんに対してだけ使う言葉です。「アッバ」は、たぶん「お父ちゃん(パパ)」という訳が一番近いでしょう。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 1:39-45

イエスの言葉の意味について、マリアとヨセフも「分からなかった。」と聖書に書いてあるので、聖書学者もなかなかいろいろな意見を持っています。確かに、イエスの神に対する関係は、「自分の父」と呼ばれる関係よりももっと深いものです。でも、その後、イエスが自分のお父さんと呼ばれるヨセフと母のマリアに「仕える」ということも驚くべきことです。キリストが神であり人間であるという二つの事実をあらわしていると思われます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

神殿での12歳のイエス
Jesus_im_Tempel
Max Liebermann (1879)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。