年間第32主日 B年

第一朗読『列王記』

列王記上 17:10-16

小冊子『聖書と典礼』の注釈に書かれていることをよく読んでください。特に「やもめ」という言葉は、聖書の中で特別な意味があるということを理解するために、この箇所だけでなく、他の聖書箇所も心に置く必要があります。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 9:24-28

前々回 の繰り返しになりますが、ヘブライ人への手紙は、キリスト信者になっていたユダヤ人(たぶんイスラエルの祭司たち)に宛てられた手紙です。そして、この手紙は、他のパウロの手紙と同じように、パウロが話したことを他の誰かが書きとめたというわけではありません。昔からの聖書学者たちの考えでは、パウロの協力者(使徒言行録のシラスなど)が、パウロの監督のもとに書き、最後の部分(13:22-25)だけをパウロ自身が書き加えたと考えられます。ですから、その意味で著者はパウロと言えます。同じように、教皇様たちの回勅もたびたび他の人が書いても著者は教皇様と言えます。

今日の朗読箇所は、キリストの大祭司としての奉献が、どれほど旧約時代の大祭司の奉献にまさるかということを強調します。旧約時代の大祭司は、何回も奉献をささげなければなりません。しかし、キリストは一度だけの奉献で、罪の救いをもたらしてくださいました。

福音朗読『マルコによる福音』マルコ 12:38-44、 または 12:41-44

マタイ 5:1-12a

やもめの寄付は、金額的にもっと大きな寄付よりも神の御前に価値があるということです。これは、キリストの言葉(教え)の中心です。結局、神がご覧になっておられるのは、外面的なことではなく、わたしたちの心です。ですから、例えば、布教の模範として、フランシスコ・ザビエルと同じように模範であるのは、幼きイエスの聖テレジアです。彼女は、目に見える布教の活動はまったくありませんでした。けれども、心の布教の望み(祈りや犠牲など)は、非常に大きく素晴らしいものでした。言うまでもありませんが、望みは出来る限り活動(行い)になるはずですけれども、それができない時に、神は望みだけをお受けになります。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

リジューのテレーズ
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参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。