受難の主日/枝の主日 B年(2015.3.29)

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 50:4-7

冊子『聖書と典礼』の注釈に書いてあるように、このイザヤの預言書にあらわれる「主の僕(しもべ)」は、主イエス・キリストのことです。弟子という言葉は、現代では教えを学ぶ人のことと解釈されがちです。しかしながら、それよりも、昔の日本でもあったように、おもに先生に従う(従順)という意味でした。ですから、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え...わたしの耳を開かれた...」では、キリストの御父の救いの計画、とくに受難の苦しみと死に従う心をあらわします。そのあとに続く「わたしは逆らわず...」の言葉も同じように、苦しみにくじけないキリストの態度を示します。

今回の朗読にある『主の僕の歌』以外に、イザヤ預言書の中には、他の『主の僕の歌』(イザヤ 42:1-9、イザヤ 52:13-53:12)があります。特に52節からの歌は、キリストの御受難の意味が見事にあらわされているので、聖金曜日に毎年読まれます。自分でお読みになることが非常に望ましいです。気をつけなければならないことがあります。話しているのは、ある場合は預言者で、ある場合は神さま御自身です。けれども、原文にも記されてないため、前後関係から読み取るしかありません。このようなことは、聖書(特に詩篇)には非常に多いです。(書籍『キリストへの新しい道』P.224参照)

第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』

フィリピ 2:6-11

キリストは人間となっても、姿によって単なる人間ではなく、神であるということをあらわすことも可能でした。(たとえば変容のときのような輝きはいつでもあらわれるということ)けれども、そうではなく、姿としては普通の人間と見えるようにお選びになりました。それ以上に奴隷のような卑しい死刑(十字架の死刑)をお受けになりました。御父は、謙遜と従順の報いとして、キリストに最高の名(最高の身分・最高の栄光)、すなわち「主」をお与えになりました。 「主」とは、神と同じような意味になっており、旧約のヤハウェ(YHWH)は、「主」または「キリオス」と訳されていました。

【たとえ話】お父さんと一緒に歩きながら、気がつかずにアリの巣の入り口を踏んで壊した子供は、アリがかわいそうと思って、「もう一度、その巣の入り口を開けよう」とお父さんに言いました。お父さんは「それは、できないことです。わたしたちの指は太すぎます。アリにならない限り、そのアリたちを助けることができません。」と答えた。もし、童話のように、その子供がアリとなって助けたら、アリはなんとありがたい行動と思ったでしょう。しかし、神と人間の違いは、人間とアリが違うよりも無限に大きいのです。神の子であるキリストは、それを「愛」によって実現してくださったのです。

受難の朗読『マルコによる主イエス・キリストの受難』

マルコ 15:1-39

この御受難の朗読の中にある34節のところなどを聞いて、大勢の人々は驚きます。確かにキリストは十字架で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。(わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。)」(詩篇22編2節)などの言葉をおっしゃった時に、御父に捨てられたような気持になって苦しまれました。このことを理解するためには、ヘブライ人への手紙4章15節「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく...あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」を思い出さなければなりません。時々私たちは、神の助けや神の慰めを感じることがなく、私たちから神が遠く離れ、祈りを聞き入れてもらえないという試練を感じます。もし、キリストが同じような試練をお受けにならなかったとすれば、「わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」という言葉は嘘になったでしょう。確かに、このことを悟るのは難しいことです。けれども、もし祈りのうちに悟ることができたなら、大きな慰めになります。キリストは、その誘惑に打ち勝ちました。この詩篇22章の最後「わたしはあなたの名を...」からの言葉は、勝利と希望の言葉です。私たちも同じように神の助けによって、失望(すさみ)の誘惑に打ち勝つことができます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。