四旬節第4主日 B年

第一朗読『歴代誌』

歴代誌下 36:14-16、19-23

キリストの御受難と復活に近づいてきますので、典礼はそれが中心になってきます。ですから、第一朗読は、少し似ている旧約時代の出来事(キリスト誕生の600年前頃)を述べます。それは、イスラエル人(ユダ国)の罪がもたらした、国とエルサレム神殿の滅びとバビロン捕囚、その後、神の憐れみにより、数十年後に救われて、エルサレムに戻ることが許されたということです。このことを思い起こして、苦しみの時に、神の救いに対する希望を持つように祈りましょう。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 2:4-10

パウロが強調したいのは、まずキリストの死は、私たちに対するこの上ない神の愛を意味しているということです。それとともに、私たちがファリサイ人のように自分の行い(業)によって救われるのではなく、神の恵みによって救われるということを強調します。確かに信者の中でも、こういう風に考える危険があります。けれども、まず良い業をするために、神の恵みが必要です。その恵みは、神がタダで憐れみによって与えてくださいます。反対の間違いは、カトリック以外の方の中でも時々あらわれます。すなわち、私たちは何もせず、私たちの良い業は、全然必要ではないということです。そうではなく、パウロが他のところ(2コリント6:1)で言うように、私たちは神の協力者なのです。

けれども、私たちの良い業だけでは、永遠の幸せを得るにはとても足りません。例えて言えば、5円で立派な屋敷を買おうとすることに似ています。神様は、その5円を出すことをどうしても必要となさいました。けれども、そのもっと高価な屋敷をタダで、憐れみによって与えてくださいます。

注)パウロは他の場合と同じように、時々文章として正しくありません。例えば、5節では「生かし」の後に文章が続いていません。それから、既に書いた言葉を忘れて、もう一度繰り返します。例えば10節では「造られた」が繰り返されます。結局パウロは、自分で書くのではなく、他の人に口述筆記してもらう方法で書いているため、こういったことがおきます。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 3:14-21

福音朗読で、キリストご自身は、ご自分の死が、私たち(世)に対する神の愛の業であるとおっしゃいました。ですから、キリストの死は、その敵の陰謀よりも、神の救いの計画であるということです。このキリストの言葉は、ご受難の意味の鍵であり、私たちが本当に忘れてはならないことです。キリストの苦しみの像や絵を見る時に、苦しみだけではなくて、愛の業であるということを自覚していなければいけません。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。