年間第24主日 A年(2017.9.17)

第一朗読『シラ書』

シラ 27:30-28:7

「憤りと怒り」が「忌まわしい」のは、罪を引き起こす原因となるからです。「憤りと怒り」に支配されて復讐するなら、かえって「主から復讐を受ける」ことになります。なぜなら、復讐は、「主」が行うべきこと(申命記32:35)だからです。

このような教えは、無条件に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と説くイエスの領域には達していません。そのことを理解するには、十字架に示された神の愛が不可欠で、それがなければ隔たりは広く開いたままに終わります。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 14:7−9

キリスト者とは、主との関わりの中で生き、主との関わりに死ぬ者のことです。その対極は、自分に生き、自分に死ぬという生き方です。自分に生きるならば、神に感謝することはなく、自分に合わない者を排除するために他人を攻撃するようになります。

主との関わりの中にあるキリスト者は、自分自身のものでも、意見の違う他人のものでもなく、「主のもの」です。ですから、自分の考えに固執するべきではなく、相手の考えに縛られる必要もありません。

わたしたちが「生きる」ことを支配しているのは、ただ「主」ひとりです。主との関わりがすべてで、その支配は「死んだ人」にも及びます。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 18:21−35

ユダヤ教では、兄弟を赦すのは3回までとされていたため、ペトロが言った「七回」は寛容を示していました。しかし、回数を問うペトロにとって、赦しとは自分の受けた損害を我慢することでしかありません。我慢には限度がありますから、そのような赦しにも限界があります。

けれども、イエスは無制限に赦すようにと教えます。つまり、イエスの赦しは、我慢ではありません。「七の七十倍」と答えたイエスが問題としているのは、回数のことではなく、赦すことに限度をおく「赦さない心」なのです。

家来が大切にしたのは、王や仲間との交わりではなく、自分が貸した金でした。28節以降、原文では「仲間」という表現が4回も使われていますが、「仲間」と訳されている原語は合成名詞になっており、「一緒に僕(奴隷)仲間」をあらわしています。一般的に「仲間」は、趣味や仕事などの結びつきがある集団ですが、聖書での仲間意識の源泉は神であり、神の働きによって仲間とされた人々のことなのです。

わたしたちは皆、自分では負いきれない罪を、神のあわれみによって赦されています。その神の深いあわれみを知るなら、誰もが神の前に「仲間」として生きること、兄弟として互いに心から赦すことができるようになります。

ですから、頭で「その通り」と認めた正しさを行動にあらわすために必要なのは、我慢や努力を重ねることではなく、神の業に目を向けることです。それが、ハードルを超えて実行する力を与えるのです。そして、「主のものです」と生きることができるなら、ハードルは次第に消えるはずです。

ペトロとパウロの間に座すキリスト
Cristo rappresentato con capelli lunghi e barba
Rembrandt (1648)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。

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