年間第16主日 B年(2018.7.22)

第一朗読『エレミヤの預言』

エレミヤ 23:1-6

「正しい若枝」(新たな牧者)により、神の民が「安らかに住む」日が到来するというメシア預言です。

ダビデの最後の言葉に、「神と共にあってわたしの家は確かに立つ。...わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」(サム下23:5)とあり、神が王朝を継続させて「喜び」である子孫からメシア王を「芽生えさせ」ることから、メシアは「若枝」と表現されます(エレ33:15、ゼカ3:8、6:12)。

「主は我らの救い」とは、呼び名というより本質あらわし、神の救いが「若枝」を通して示されるということです。

日本語の「顧みる」では、「罰する」という語意は考えられませんが、原文では「顧みる」と「罰する」が同じ語〈パーカド〉で、上位の者が下位の者に特別の注意を払い、その者の状況を変えるように関わるという意味です。もし、悪い行為を続けるなら、「罰する」という関わりにより行為を終わらせることもありえるからです。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 2:13-18

豊かな商業都市エフェソは、異教祭儀の中心地でもあり、異邦人である信徒は「以前は遠く離れて」いましたが、キリストと出会うことにより(直訳で「キリストの血の中で」)「近い者」となりました。

エルサレム神殿には、柵で隔てられたユダヤ人だけが入ることのできる中庭がありましたが、キリストは「規則と戒律づくめの律法」を廃止して、ユダヤ人と異邦人の間にある敵意を十字架によって滅ぼし、神との和解をもたらしました。

旧約の王は、神の民を顧みない牧者でしたが、新約の王は、深く憐れむ牧者で、この方によってすべての人が神と和解することができ、この和解の中ですべての人が「一人の新しい人」となり、「一つの体」(キリストの体、教会)を造り上げていくのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 6:30-34

派遣された十二人の使徒の目的は「悔い改めさせるため」(マコ6:12)で、「悔い改め」とは、生きる姿勢全体をイエスが運ぶ神の国に合わせて生きることですから、十二人も杖一本のほかは何も持たずに旅に出ることにより、神の国への信頼をあらわしました。

イエスは、宣教から戻った弟子たちをねぎらい、「人里離れた所」で休むように言われます。イエスも、カファルナウムで宣教を始めたとき、朝早くまだ暗いうちに「人里離れた所」で祈られていたように(マコ1:35)、しばしば神との交わりに専念することで力を受けていますが、ここでの「休む」という語には、体の休息だけでなく、真実の喜びや慰めを受けて元気づけられるという意味もあります(フィレ7)。

使徒たちが、神との交わりを確かにするために「人里離れた所」へ向かうのは、神の国の宣教を担う力を受けて、群衆に深い哀れみを持つイエスとともに働き続けるためなのです。

羊の群れを顧みなかった王たちに代えて、正義と恵の業を行う理想の王(メシア)が派遣される日が来ました。しかも、日本語の「顧みる(心にかける・世話をする)」では終わらず、相手の状況を変えるようにと関わるために、深く憐れむ牧者なのです。

園で祈るイエス
Jesus Praying in the Garden
Gustave Doré (1866)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。

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