聖土曜日・復活徹夜祭説教

聖土曜日・復活徹夜祭説教

自分に死んで,キリストに生きる
ローマの信徒への手紙 6:3-11

 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」とパウロは言います。キリストと共に「罪に対して死に」、キリストと共に「神に対して生きる」、それがキリスト教徒の生き方だというのです。いったい、どういうことでしょう。

 罪とは、そもそも何でしょう。アダムとイブの話を思い出せばすぐに分かりますが、罪とは神の言いつけに背くということです。してはいけないと分かっていながら、欲望に引きずられ、さまざまな理由をつけて神のみ旨に背くこと。それが罪なのです。「罪に対して死ぬ」とは、そのような生き方を捨てること。誘惑に屈せず、ただ神のみ旨に従う人生を選ぶということです。それは、そのまま「神に対して生きる」ということに他なりません。自分の欲望に従って生きる生き方を捨て、神に従って生きる生き方を選ぶ。それが、「神に対して生きる」ということなのです。自分に死んで、神に生きる。それがキリスト教徒の生き方なのです。

 順番としては、まず自分にとことん死ぬことです。キリスト教徒の生活は、日々が絶え間ない死だといってもいいくらいです。なぜなら、わたしたち人間は、何をするにしてもまず自分の欲望に従って行動しようとしてしまうものだからです。たとえば何かを選ぶとき、わたしたちはつい「どちらが自分にとって得だろうか。自分の欲望をより多く満たすだろうか」と考えて選んでしまいがちです。何かを選ぶとき、自分を基準にせず神を基準にすること。「どちらが神のみ旨にかなうだろうか。神を喜ばせるだろうか」と考えて選ぶようになる、それが自分に死ぬということです。これは、すぐにはできないかもしれません。ですが、何度も繰り返しているうちに、やがて小さなことならば自然にそう考えられるようになってゆきます。やがて、どんな大きなこと、自分の命に関わるようなことについても、そう考えられるようになる日が来るかもしれません。そのとき、わたしたちは完全に自分に死ぬのです。

 神のみ旨は愛ですから、自分に死ぬとは、自分のためにではなく、神と人々のために生きること、神と人とを愛することだとも言えます。自分に死ぬとは、隣人との関係において、どんな場合でも愛を選ぶということなのです。ところが、わたしたちはつい、隣人を愛することより、自分が愛されることを先に考えてしまいがちです。自分の思った通りに動かない相手、自分を十分に尊敬してくれない相手に対して腹を立て、厳しい言葉を投げつけたり、いやがらせをして相手を困らせたりしてしまいがちなのです。その結果、人間関係はぎすぎすしたものになり、生きること自体が辛くなってゆきます。罪に対して生きることによって、生活が地獄のようになってゆくのです。

 自分に対して死ぬとは、このような悪循環をきっぱり断ち切り、どんな場合でも相手を愛する方を選ぶということです。自分が愛されることよりも、相手を愛することを選ぶ。それが自分に死ぬことだと言ってもいいでしょう。それが自然にできるようになったとき、わたしたちは自分に完全に死に、完全にキリストを生きる者になるのです。

 キリスト教徒の生活は、絶え間ない死です。ですが、その死の中にこそ、本当の命がある。そのことを信じて、この道を歩む決意を新たにしましょう。

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