聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ説教

2020年4月9日・聖木曜日説教

新たな一歩を踏み出すために
ヨハネによる福音書13:1-15

 「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」とパウロは言います。イエスが、ご自分の肉と血、ご自分の命さえもわたしたちのために捧げるほどわたしたちを愛してくださった。わたしたちのために死んでくださった。そのことを思い出して感謝し、喜びと力に満たされて人々に神の愛を伝えてゆく。それこそがわたしたちの使命なのです。
 まもなく洗礼式が行われますが、7つの秘跡を覚えているでしょうか。洗礼、堅信、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階と、あともう一つはなんでしょう。聖体と答える人もいるかもしれませんが、正確に言えば「エウカリスチアの秘跡」です。エウカリスチアとは、ギリシア語の感謝する、賛美するという言葉に由来する呼び名で、「感謝の祭儀」と訳されたりします。御聖体だけでなく、御聖体を頂点とする「感謝の祭儀」全体が秘跡、すなわち神さまの愛の目に見えるしるしなのです。
 ですから、ミサの中で一番大切なのは、十字架の死に至るまでイエスがどれほどわたしたちを愛してくださったか。神様がわたしたちをどれほど愛してくださっているかを思い出し、感謝することです。神様の愛を心の底から実感して感謝し、喜びにあふれて神を賛美する秘跡。その頂点に、御聖体において神様の愛と深く結ばれる聖餐式があるのです。
 今日の福音では、イエスが弟子たちの足を洗う箇所が読まれました。イエスは、わたしたちの汚れた足を洗ってくださる方。人生の歩みの中でわたしたちの心についた汚れを、すっかり洗い清めてくださる方なのです。遠慮する必要はまったくありません。イエスは、わたしたち人間がどれほど弱く、罪を犯しやすい存在かをよく知っておられます。自分でさえ見るのが嫌なくらい汚れた心でさえ、イエスは嫌な顔一つせずに見つめ、洗い清めてくださるのです。わたしたちは、ただ安心して、自分の心をイエスに差し出すだけでいいのです。あとのことは、すべてイエスがしてくださいます。イエスは、わたしたちの汚れた心に愛を注ぎ、恐れや不安をぬぐい取り、喜びと力で満たされた新しい心にしてくださるのです。その喜びと力を神にお捧げし、神に心の底からの感謝を捧げる、それが今日のミサだと思ったらいいでしょう。
 わたしたちの足を洗ったイエスは、今度は「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言います。今度は、わたしたち自身が相手の汚れた心をあるがままに受け止め、愛で包みなさいというのです。相手の弱さを直視しつつも決して裁かず、ゆるし、受け入れなさいというのです。自分の心がどれほど汚れていたか、イエスが嫌な顔一つせずにその汚れを受け入れ、ゆるしてくださったかを思い出せば、わたしたちは相手を裁くことができなくなるでしょう。
 すべては、イエスに足を洗っていただくことから始まります。イエスに足を洗っていただいた人だけが、イエスの弟子として歩み始めることができるのです。人生の歩みの中で汚れた心をイエスに差し出し、すっかり洗っていただくことができるように祈りましょう。

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